東京市から東京都へ


はじめに

 東京市、何言ってんの。東京は都でしょうが、市じゃないよ、というかも知れない。でもそれは今の話。江戸川乱歩が大活躍していた大正末期から昭和初めは今の東京都の範囲内が東京府で、その中心部が東京市だった。したがって、乱歩の小説をより魅力あるものとして読むためには今の区名を知っていても当時の区名を知らなければあまり意味がないといえる。しかも乱歩は区名で場所を表すことが多いのだ。よってここでは東京市15区から東京23区について説明したい。


東京市の拡張

明治11年 東京府の中心部を15区に分割。東京市の礎が完成。


明治22年 市制町村制に伴い、東京府中心部の15区で構成される東京市が誕生す。


昭和7年 近隣82町村を編入し大東京市35区完成す。(ほぼ現在の東京都区内と同じ)
人口も200数万から551万となり、大正14年の東成、西成両郡44町村を編入した大大阪市(現在の大阪市)の210数万の人口を抜き、日本一に返り咲いた。また世界でも人口第二位となる。


昭和11年 北多摩郡の千歳村、砧村を世田谷区に編入。


昭和18年 府・市制を廃し、東京都誕生。


昭和22年 東京35区から東京22特別行政区へ。すぐに練馬区が板橋区から独立し東京23特別行政区となり、現在の形となる。
またこの時、他の東京都内の市郡等の区画も決まった。


★明治21年と記述していた東京市および15区誕生時期だったが、15区の誕生が明治11年であり、東京市の誕生が明治22年という点が、間違いであったので、修正した。[2004/09/05]



大東京市簡易地図

この下の地図は大東京市成立直後くらいの大東京市及び千歳村、砧村の地図です。ただ東京湾の人口島の類は現在のものを参照(汗)したので、注意!あと、(練馬区)というのは、便宜上わかりやすくするためにそのエリアとともに書いたもので、当時は板橋區の一区画であった。詳しくは下部の郡区町村編成表を参考のこと。

一応東京市地図:クリックすると、マップを拡大します


郡区町村編成表

15区及び5郡82町村名+昭和11年編入組の1郡2村名 35区 23区
麹町区[58,711人] 麹町区 千代田区
神田区[129,976人] 神田区
日本橋区[107,645] 日本橋区 中央区
京橋区[131,888人] 京橋区
芝区[175,760人] 芝区 港区
麻布区[86,493人] 麻布区
赤坂区[60,234人] 赤坂区
四谷区[75,021人] 四谷区 新宿区
牛込区[129,132人] 牛込区
豊多摩郡(大久保町[33,815人]・戸塚町[31,781人]・落合町[30,593人]・淀橋町[57,313人]) 淀橋区
小石川区[151,493人] 小石川区 文京区
本郷区[136,749人] 本郷区
下谷区[173,977人] 下谷区 台東区
浅草区[241,695人] 浅草区
本所区[235,324人] 本所区 墨田区
南葛飾郡(吾嬬町[80,985人]・隅田町[25,077人]・寺島町[49,457人]) 向島区
深川区[176,815人] 深川区 江東区
南葛飾郡(亀戸町[65,174人]・大島町[43,140人]・砂町[34,657人]) 城東区
荏原郡(品川町[55,639人]・大崎町[53,777人]・大井町[70,080人]) 品川区 品川区
荏原郡(荏原町[132,108人]) 荏原区
荏原郡(目黒町[67,236人]・碑衾町[40,972人]) 目黒区 目黒区
荏原郡(馬込町[23,025人]・東調布町[12,326人]・池上町[20,720人]・入新井町[45,209人]・大森町[46,055人]) 大森区 大田区
荏原郡(矢口町[18,261人]・蒲田町[44,030人]・六郷町[14,441人]・羽田町[21,390人]) 蒲田区
荏原郡(世田ヶ谷町[73,110人]・松沢村[12,337人]・玉川村[16,759人]・駒沢町[31,043人])

北多摩郡
(千歳村[8,110人]・砧村[7,964人])〔昭和11年に編入〕
世田谷区 世田谷区
豊多摩郡(渋谷町[102,056人]・代々幡町[70,577人]・千駄ヶ谷町[40,900人]) 渋谷区 渋谷区
豊多摩郡(中野町[87,263人]・野方町[46,835人]) 中野区 中野区
豊多摩郡(和田堀町[19,194人]・杉並町[79,193人]・井荻町[22,724人]・高井戸町[13,418人]) 杉並区 杉並区
北豊島郡(巣鴨町[43,239人]・西巣鴨町[115,654人]・高田町[48,542人]・長崎町[29,266人]) 豊島区 豊島区
北豊島郡(滝野川町[100,746人]) 滝野川区 北区
北豊島郡(王子町[89,009人]・岩淵町[37,664人]) 王子区
北豊島郡(南千住町[56,010人]・三河島町[80,217人]・尾久町[73,368人]・日暮里町[71,021人]) 荒川区 荒川区
北豊島郡(志村[12,151人]・板橋町[44,717人]・中新井町[7,311人]・上板橋村[8,454人]・赤塚村[6,758人]) 板橋区 板橋区
北豊島郡(石神井村[9,839人]・大泉村[5,052人]・練馬町[13,145人]・上練馬村[6,159人]) 練馬区
南足立郡(千住町[69,085人]・西新井町[20,077人]・江北村[5,534人]・舎人村[1,957人]・梅島村[12,748人]・綾瀬村[5,673人]・東淵江村[3,105人]・花畑村[4,363人]・淵江村[3,277人]・伊興村[1,688人]) 足立区 足立区
南葛飾郡(金町[10,310人]・水元村[4,030人]・新宿町[4,848人]・奥戸町[11,365人]・本田町[27,390人]・亀青村[6,159人]・南綾瀬町[20,354人]) 葛飾区 葛飾区
南葛飾郡(小松川町[39,928人]・松江町[17,112人]・葛西村[9,326人]・瑞江村[7,836人]・鹿本村[3,768人]・篠崎村[4,153人]・小岩町[14,848人]) 江戸川区 江戸川区

2009/07/01追記
(1). 上記【郡区町村編成表】中の「15区及び郡部」の列に、昭和五年の国勢調査における人口を付記した(ソースは東京都総務部のこのPDF資料の数字。ちなみに原因不明だが、なぜか流動出版「昭和の大雑誌」記載(元は「改造」5年12月号記事)の国勢調査結果の数字と僅かに異なる。どちらかが速報値なのか?)。
こうして記載してみると、15区時代末期における周辺町村の人口爆発がよくわかるではないか。それに従前より、荏原区や滝野川区が領域的にも不自然にも関わらず、どうして一町がそのまま区になれたのか不思議にも思っていたが、なんのことはない。人口が非常に多いからだったのだろう。
(2). [23区]列のリンク先として、現在の都市情報のページを設定した。
(3). 参考までに昭和5年全国の都市人口

こうして見ると、旧区の合併の中央区と北区と港区はえらく平凡という感じがする。どうみても旧区時代の名前の方がインパクトがあるのだが。それに対して大田区と千代田区は上手い。単純に旧区の名前を合併させている大田区、そしてそれが無理っぽい名前の旧麹町区には区内の天皇を示唆させる千代を使うことで旧神田区と併せて千代田区(大間違い、下記部参照)、これは傑作だ。


と短絡的に思った管理人であったが、文章作成以後二年以上経ったと思われる2002年4月21日、E-MailでANNさんからご丁寧な指摘があったので、それをもとに下記に記させて頂く。(全文引用しても良かったのだが、許可を明確に得てない以上、部分引用を交えての再構成に留めた)

まず、千代田区についてであるが、この”千代田”、上記私の言うような理由では全くなく、江戸城の雅名、千代田城にちなんだものとのことである。
多くの他の区では新区名称決定をめぐって、新区発足ギリギリまで揉め続けて、昭和22年2月以降に新区名を決定しているのに対して、旧麹町・旧神田両区は合併 を議決した昭和21年12月には、早、新名称を千代田区とすることも同時に議決したそうな。まさに異論も余り出なかったということだろう。
この理由というのも、この両区が双方ともに千代田城を中心に発展してきた事から、ごく自然に千代田区の”千代田”が新区名として、抵抗無く受け入れられたものと考えられるようだ。ちなみに千代田区の公式サイト内のこちらにも同じような由来が述べられていた。

さて、その千代田城の由来についてだが、これはANNさんの文章を直接引用させて頂こう。と言うのも、太田道灌を大田と表記しているのに、何かコダワリがあるのか?と考えて見たからであるが(その件聞いてみたが再返は望めない模様か?)、とにかく以下に引用。
ではその千代田城の名の起こりですが、これは大田道灌が江戸城を築いた15世紀中 頃に遡ります。当時この地は肥沃な田地で、一帯には祝田、宝田、千代田の地名があ りましたが、道灌はその中から一番字面の佳い“千代田”を選んで新しく築いた城の 名に冠したと言われています。そして徳川の時代になっても、千代田城は江戸城の雅 名として残ることになりました。
このANNさんの説明は千代田区の由来を知る上で、とても参考になる。つまるところ、千代田区が、現在も千代田区である理由として、第一に太田道灌の存在が語られるわけで、その歴史も500年を優に越えているのである。当然ながら明治以後の天皇家とは一切関係ない模様だ。

あと、大田区についても、参考意見を頂いているが、旧大森区、旧蒲田区の一字ずつを単純に取ったという件は全く正しいとしつつも、”大蒲”やら”森田”としなかった理由として、太田道灌から連想される”大田”を採ったと言う事だ。

ともかく確かに東京というか、武蔵の国で、室町時代に、圧倒的な人気を誇っていた太田道灌のネームバリューならば、頷ける所かも知れない。が、全く太田道灌に詳しくない私はこれ以上自分の見解は混ぜ合わせないようにしよう。


お奨め書籍として、博文館新社「大東京写真案内」(乱歩関連書籍のコーナーより)を挙げておく。


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