ななこさん。やっぱなくよねーーー
仲間だ。
友達になって。
どうぞよろしく☆小林君は無心にやってるみたいだけど、あれ読むと「明智先生、ひどいっ」と不信感がつのります。
小林君が、『少年探偵団』でみどりちゃんを背負って泳いでいるのを考えたら泣いちゃった
きっと、アナタは私の同類!「悪魔人形」のワンシーンでは、きっと号泣するはずですよ。もう、けなげ過ぎて。あと、「魔人ゴング」も。
久しぶりにこのコーナー見たのですが、77の書き込みの「ななこ」は、私じゃありませんよ?返信の松村さんは、『ご無沙汰しています』とおっしゃてて、どうやら私だと思っていらっしゃるみたいだし・・・・。同じハンドルネーム使うのはやめましょうね。それとも、私自身が知らないうちにもう一人の私がかいたのだろうか??でも、文脈が微妙にキャルっちいぞ?今の私はもうああいう文章は書けないです(汗)
>ななこさま
こちらは本物のななこさんですよね?
確かに、No.77には、「はじめまして」と冒頭にありましたね。俺の早とちりだったのか・・・orz
私も「はじめまして」を見落としてました・・・。最近私も、あんまり書き込みしていないし、ハンドルがダブルのも無理ないかもしれませんね。新ななこさん、すみません。
文庫本で揃えようと思っているのですが、どの出版社のものがいちばんオススメですか??
サーカスの怪人かしら
nguhさん、初めまして。
もっと詳しい方が大勢いらっしゃるので遠慮していましたが、
皆さんお忙しそうなので、遅くなって申し訳ありませんがお答えします。
・ほぼ全作品を一気に揃えるなら・・・・・・完結したばかりの光文社文庫版全集
・一冊だけ読むなら・・・・・・新潮文庫「江戸川乱歩傑作選」
・最低限の作品を読むなら・・・・・・創元推理文庫「日本探偵小説全集2・江戸川乱歩集」『孤島の鬼』『D坂の殺人事件』
・挿し絵と発表当時の雰囲気も知りたいなら・・・・・・上記三冊とその他の創元推理文庫版全部
(個人的には創元版が一番お薦めですが、完結よりも先に地球が滅亡するかもしれません)
インターネット上のフリー百科事典「ウィキペディア(日本語版)」の「稲垣足穂」の項
("http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%9E%A3%E8%B6%B3%E7%A9%82")に
「同じく男色家である江戸川乱歩とも出会った。」という一文がありました。
「男色家」の部分が気になったのですが
訂正するにしても「少年愛好家」では訂正の意味が無い気がしますし
「衆道文化の研究家」も何か違う気がしますし
そもそも、確か「旅順開戦館」から知り合ったのだから全く書き直した方が良い気も……。
そういう訳で迷っているのですが、何か上手い書き方は無いでしょうか?
済みません。
リンクは最後のダブルクォーテーションを削除して移動して下さい。
書込みに慣れていない所為か、毎度の如く何かしら失敗していますが
態とではありません^^;
これは「ウィキペディア(日本語版)」の文章自体がどうも唐突な感じですね。
秋雲さん曰くように、とにかくもひとまず以下のような修正は必須でしょうね。似てるとは言え直感的意味合いが全然違いますし。
×男色家
○男色研究家あるいは同性愛研究家など
あと乱歩に触れるなら、対談「E氏との一夕」にも触れた方が丁寧かもしれません。
ただ書き方は難しいですね・・・。この全体の説明自体が少ないために乱歩記述に多くを割くのもバランスを崩しそうですし・・・。
一応まったく良案を思い浮かばないまでも、私案を挙げておきます。どちらにしても説明全体とのバランスが・・・・。
A案=====================
同じ同性愛研究趣味を持つ江戸川乱歩との対談に「E氏との一夕」(昭和22年)がある。
B案=====================
この(昭和3年)頃から同じ同性愛研究趣味を持つ江戸川乱歩との交遊が始まっている。
(アイナット様)
確かに、説明全体とのバランスを考えると難しいですね……
元の記事自体がツギハギの様な感じですし……
と、考えていると全体を書き直したくなったり……^^;
(とは言っても、稲垣足穂関連は未だ一字も読んでいないので書けないのですが……)
うーむ、如何したものでしょう……
……何だか、問題提起した癖に意味のある事を何も言えずにスミマセン^^;
考えてもより良い案が思いつかないので
とりあえず「男色家」を「同性愛研究家」に変更してみました。
御報告迄
秋雲さま
どうも今さらながら、どうもでした。乱歩ファン的にはひとまずは良さそうですね
どなたか教えてください!
小林少年が女装した作品を。
確か二十面相を追跡するために変装したと記憶してるのですが。
もう、何十年も昔のことなので記憶がボロボロ、アハハ!(乾いた笑)
こちらもうろ覚えなので、全てを覚えているわけではないのですが、小林少年が女装した作品は、まず「少年探偵団」があります。
それから、ポプラ社で少年少女向けリライト版「大暗室」でも、小林少年が女装していました。
どちらも二十面相を追跡するための変装でした。
他には誘拐された女の子の身代わりで変装したものもあったような気がするのですが、よく覚えていません。
それよりも、明智探偵が女装しているのが見てみたい気がします。
乱歩原作には、さすがにそこまで馬鹿げたことは書いてなかったのですが、北大路欣也主演の明智探偵シリーズでは、北大路の明智が女性に変装していた話がありました。華奢な体型の女性が、仮面を剥がした瞬間、やたらガッシリした体型になって、衣装をかなぐり捨てたら、その下にスーツを着ていて、どう考えてもありえない話ではないかと、呆れ返ったものでした。
ともかく、小林少年は、女装してもあまり不自然さを感じさせないくらい、女の子みたいに可愛い少年だったのでしょうね。
まるで僕みたいだ。
「少年探偵団」「サーカスの怪人」「二十面相の呪い」・・・女中さん、お手伝いさん。
「魔人ゴング」・・・花崎マユミの替え玉。
「悪魔人形」・・・牛乳屋の青年を魅了す、女子中学生。
リライト版では、「黄金仮面」「大暗室」で、見られます。
他にもあったかもしれませんが、記憶しているのはこれくらいでしょうか?しかしつくづく私もオタですこと・・・。
怪人二十面相で小林少年が変装したのは何ですか?
ぜひ教えてください!!!!
大仏です。
はじめまして。
どの作品だったか忘れてしまったので、良かったら教えて下さい!
おじさんと少女のお話で、夕闇の中で少女がおじさんの前でクネクネと踊ってみせる・・・というお話です。それがすごく色っぽいというか、妖艶であった・・・というような下りがあったような気がします。
探しています。よろしくお願い致します。
>ななこ様
ご無沙汰してます。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。
お尋ねの件は、恐らく、「畸形の天女」でしょう。
「畸形の天女」は乱歩の単独作品でなく、数人の作家による連作ですが、その第1回目の発端部分を乱歩が書いており、その中で、主人公の中年実業家が南千住の場末でヒロインの少女と出会う場面で、その踊りが出てきます。
たしか「アッという間のひと踊り」とか描写されていたと思います。
畸形の天女!やっぱりそうでしたかぁ☆
深く感謝致します、ご丁寧に回答頂きありがとうございました^^
今は孤島の鬼を(何回目かわからないですが笑)読んでいます。
やっぱり、乱歩は最っ高〜〜ですね!!
「怪人十二面相」で、小林少年が変装したのは、何か教えてください。よろしくお願いします!
仏像。
はじめまして。
乱歩の調べ物をしているうちに、こちらのHPにたどり着きました。とても面白いHPですね。
早速ですが、質問させていただいてもよろしいでしょうか?
随筆「人形」の中に、乱歩が人形に興味をもったきっかけとして描かれている話がありますよね?
(姫が、若衆人形と一緒に寝ながら恋の睦言を交わす話です。)
その話には原出の本が存在するのかしないのかが気になっています。
よろしければ教えていただけないでしょうか?
質問のみの書き込みになってしまって申し訳ありません。
よろしくお願いします。
オムニバスのオープニングとなったこの作品は、皆さんが書かれていらっしゃる様に、原作からかなりかけ離れたアーティスティックな作品に仕上がっていました。まるで音楽PVの様でした。
監督である竹内スグルという人は音楽クリップの制作もされた方だという事でしたので、監督が撮られたUAとThe Yellow Monkeyのクリップを観てみました。
映像と音というのは不思議な関係がある様で、時として映像そのもの本来の意味をまるで変えてしまう事もあって驚く、と言った監督が居ましたが、この作品にも多少そういう事もあったの知れませんね。
作詞・江戸川乱歩、作曲・編曲・竹内スグル…という音楽クリップだという観点で観れば、これもある意味ありかもって思いました。
それは「火星の運河」が、ただ単なるSMにあらずといった前提の元にのみ許されるのでしょうが…
暴力的な男女間の愛情の行為というのは、上手く書けませんが…後悔と懺悔と愛のプレッシャーと常に抱き合わせみたいな所があったりする様に思います。
溢れて抱えきれない愛しさを、心とは裏腹な暴力で表現してしまい、絶望で潰れてしまいそうになる男。
浅野忠信さんはそんな哀しさを、体一つで良く表現されていた様に感じました。
愛する気持ちに、自分が強く存在する人は、時としてその対象を見失いがちです。
相手に、自分と違う時間が流れていて、時と共に変わって行く心がある事を…忘れてしまうのでしょうね。
孤独な愛の漂流者が堕ちた地獄は…時の流れが停まった哀しい孤独の世界なのかもしれません。
子供が母にしがみつく様な愛情表現を受け入れる相手が見つかるまで、一人戦い続けるしかないのでしょうね。
「火星の運河」…女の私には、観る側の人生観によっては、重くのしかかる作品だと思いました。
ではでは。
明けましておめでとうございます、マリィさん。
謹みて初春のお慶び申し上げます。本年もどうぞ宜しくお願いいたします。
私は昨日の元日夕方6時より岡山城天守閣近くのシネクレール石関というミニシアターで「乱歩地獄」を鑑賞いたしました。その後、家でTVドラマ「相棒」スペシャルを2時間半視聴するという脳にハードな夜となってしまいました。
マリィさんはTVを殆んど観られないのでご存知ないかもしれませんが、水谷豊と寺脇康文共演の刑事ドラマ「相棒」は脚本と演出が良いので欠かさず観ております。
それから明日から三夜連続で「古畑任三郎」ファイナルが楽しみなんです!とくに第一夜は石坂浩二と藤原竜也がゲスト出演であきらかに「悪魔の手毬唄」のパロディーとなってます。第二夜はイチローが、第三夜は松島菜々子が犯人だそうです。
そして6日は「女王蜂」です。
お正月のTVは楽しみです。そして10日からの兄ィさんの出演される「アンフェア」も待ち遠しいです!
あ、「乱歩地獄」と関係ない話になってすみません!なぜこんな冗長なお喋りしたかというと、横溝作品に比べ乱歩作品が映像化しにくいのだろうなーと常々想っているからです。
たぶん多くの方が映像化を期待しながらもその魅力を凌駕できる映像を観ることは出来ないのだろうと、薄々感じているのではないかと想っております。
ただし、明智小五郎が悪人を勧善懲悪的に追い詰めるといったような類型的な物語は別ですが。
乱歩先生の文学性の高い作品群には共通の特徴があるように想います。
それは文章表現におけるカラクリ仕立てのようなもの、文体そのものにトリックが仕掛けられていることだと想っています。
だから映像表現者はそのカラクリを慎重に解体し、再び自分流にそのカラクリを再構築しなければならないという命題を乱歩先生から突き付けられているのではと想像しております。
さて「火星の運河」の感想ですが、SMではなく今流行のDVでしたね。“打擲”(完全死語ですネ)という言葉が頭の中で駆け巡ってしまいました。
私は肉体的暴力の趣味がないので、女性に手を挙げた事はありません。精神的暴力はしてるかも?
SMもあまり観たいとも想いません。しかし、言葉では伝わらないものが肉体を通してだけ伝わる事もあるのだろうな〜と想ってしまいました。
筋肉のよじれ・ゆがみが不思議な映像美になることもこの映画で再確認しました。喋らない浅野忠信いい男ですネ!散髪してあげたいくらい。(笑)
そう云えばこの人の名前を観るたび、猿之助のあたり狂言“狐忠信”を想い出してしまうのですよ。愛しい母親が鼓の皮となったのを忠信がその鼓に頬擦りする場面がとても切ないですよネ。
マリィさんが“狐葛の葉”を想うように。
長々と取り留めのない話をしてしまいました。
マリィさん御免なさい。
われた鏡の中から
俺を探し出すんだ
雑音なしの俺を・・・
裸になった俺の俺を・・・
byジャックス
「映像化不可能」とまで言われた、乱歩作品のうちでも極めつけとも言える短編を選りすぐったオムニバス映画「乱歩地獄」を見ての感想を一言で言うと、「玉石混交」と言うのが一番近い評価でしょうか。まさに、砕け散った鏡のそれぞれ、奇妙に歪んだ映像もあれば、まるっきりダメにしまったもの、ますます狂った輝きを増すものもあるという感じで、以下、各々の作品につき、私見を述べさせていただきます。
なお付言しておきますと、僕は乱歩の原作至上主義なので、映画一般としての出来云々ではなく、飽くまで、乱歩原作の作品世界の持つイメージに近いものに高い評価を下したもので、映像芸術としての評価は全く考慮していませんので念のためご承知願います。
「鏡地獄」(竹内スグル監督)50点
アイスランドの荒野で撮影したとのことで、世界の終わりのような沈黙の世界の、夢幻的な雰囲気は良かったのですが、妖しい沼まで描きながら、惜しいことに尻切れトンボで終わってしまいます。原作を活かして、沼の畔で血まみれのキリキリ舞いの踊りを踊って欲しいところです。無論、原作にあるオチは全く不要ですが(笑)。
但し、「乱歩地獄」というオムニバスの雰囲気を端的に表現した「プロローグ」の役割は、先ず先ず果たしているかな、とは思います。
「鏡地獄」(実相寺昭雄監督)0点のところお情けで10点
映像化作品ですので、何も原作どおりにやれ、とは申しませんが、これは「鏡地獄」とは全く別の作品です。
しかも「和鏡に仕込んだ物質による理化学トリックの連続殺人」とは、一体何事でしょうか。その発想そのものがダメです。鏡の共鳴現象、仏像の謎、突如鳴り響く踏切、怪光線・・・、海野十三あたりの通俗猟奇探偵小説ではあるまいし。
鎌倉の旧家を舞台にした、独特のカメラアングルによる描写も、陳腐なだけで白けるばかり。未だに、十年も前の乱歩映画のような「乱歩=大正・昭和初期のレトロ」という図式から一歩も進化していないのは驚くばかり。
無論、球体の鏡の内部の映像化が困難なことぐらい百も承知ですが、プログラムに書かれた監督のコメントが「金がかかるから」とは笑止千万です。どんな表現になろうとも挑戦してみなければ意味がありません。ラスト、主演の成宮寛貴による狂気の演技のみ光っています。だからお情けで0点のところ10点。
前述したように、本作のテイストは乱歩というより、「人間灰」や「振動魔」、「俘囚」などの似非キテレツ科学トリックとエログロ猟奇性に満ちた海野十三の作品世界に近く、その映画化なら評価できますが、乱歩の「鏡地獄」とは、とにかく無関係。
蛇足ながら、懐かしのTVドラマ「怪奇大作戦」の1エピソードかと思いました。
「芋虫」(佐藤寿保監督)75点
前の2作が続けて期待はずれでしたので、この辺りから不安になっていましたが、「芋虫」でかなり持ち直しました(笑)。
原作どおり、時子と須永中尉の爛れた愛欲世界を見事に描ききっています。時子役の岡元夕紀子という女優は初見でしたが、なかなかの演技で良い女優ですね。グロテスクな場面も、不愉快と感じるギリギリのところで抑えています。あと「ユルシテ」「ユルス」も出てきたしね(笑)。
ただ、この二人だけではストーリーが膨らまないと思ったのか、余計な人物を出してしまったのは如何なものでしょうか。しかも、明智小五郎と二十面相?こと平井太郎って・・・。せっかくの松田龍平を使いきれていない印象を持ちました。
「蟲」(カネコアツシ監督)95点
最後の最後に大傑作が待ち構えていました。
浅野忠信、畢生の名演技!また、原作の土蔵ではなく、主人公・柾木の脳内の、文字通りの「お花畑」を舞台にしたのも実に新鮮な解釈で面白かったです。誘拐した女性を土蔵に監禁するなどの不愉快な事件が現実に起きている昨今を鑑みれば、この舞台変更は正解と言えるでしょう。
しかも、その極彩色の「お花畑」がチープでイカレまくっていること!乱歩の「パノラマ島」や「ジロ娯楽園」とは、さしずめこんな場所なのか、と強くイメージを喚起させられました。この狂った美術感覚、「乱歩地獄」の中では乱歩の原作世界に一番近い風景であると思います。
また物語の終盤、浅野忠信演じる柾木の狂った演技が乗りまくっています。原作の持つ、グロテスクの極みと表裏一体のどこか滑稽な部分を実に上手く再現しています。防腐手術大失敗の場面も良いですが、「何だっけなあ」のセリフは、もうこれ以上の言い方はない!とまで言える名セリフで、笑いを噛み殺すのが辛かったです。原作にある、柾木が蹴つまづいて、とうとう頭のネジが飛んでしまう場面も、別のセリフながら、頑張って表現しており、これもグロテスクで変てこな笑いに満ちています。
ラストのオチも、先ず先ずの出来。木下芙蓉演じる緒川たまきも、原作のイメージに近いです。あと脇役の、夢野久作の作品にでも出てきそうな、不愉快なイヤ〜な感じの医者も良かったですね。
久々に乱歩の原作世界を堪能できる傑作に出会いました。100点満点としたいところですが、序盤のもたつきと、気味の悪い意味不明のヒルのような生物は不要なので、95点。
この監督、もとはマンガ家で、映画監督は初挑戦とのことらしいですが、期待できそうです。
感想は以上のとおりです。映像化困難ともいえる作品群にトライした意気は認めますが、失敗したものは大失敗したとしか言いようがありません。但し、後半の2作には見るべきものがあるとは思います。殊に「蟲」は、今後、主人公の名演技に観客が大爆笑しつつ変な感動が押し寄せるという、「恐怖奇形人間」の衣鉢を継いでゆくのではないか、と思いました。
末筆ながら、鑑賞中、僕の頭の中には、もう40年近くも前のカルトGSグループ「ジャックス」の名曲「割れた鏡の中から」が流れていました。EDは、ゆらゆら帝国も良いですが、ジャックスの曲にして欲しかったなあ。
ヘイ、お退屈さま。
失礼しました。
>「鏡地獄」(竹内スグル監督)50点
とあるのは、「火星の運河」の誤りです。
僕の感想では、「火星の運河」以外はまずまずの出来栄えではなかったかと思います。
「鏡地獄」もおかしな脚色をして、無理やり明智小五郎を登場させて探偵小説仕立てにしていましたが、これはこれで結構楽しめました。ただ、実相寺監督ならば、明智小五郎は嶋田久作で、小林少年は女の子の方が良かったですね。
「芋虫」も、須永中尉の姿をあそこまで露骨に具体的に曝け出したのには、度肝を抜かれました。
アメリカ映画の「ジョニーは戦場へ行った」の主人公も、芋虫と同じ境遇でしたが、ベッドに横たわってシーツを被せて、見せ所が主人公の回想シーンで、全体的にきれいにまとめていたのに対し、こちらはかなりグロテスクにまとめていました。須永中尉と時子との愛の世界を描いたと言えば、そう言えるし、またわかるような気もするし、よくわからないなという感じもします。
ここでも取って付けたように浅野忠信の明智小五郎と松田龍平の怪人二十面相が登場しますが、松田龍平は全然変装しないのに、どこが怪人二十面相なのか?第一、二十面相はあんな残酷な性格ではない。
須永中尉を二度と戦場に出したくないために、時子が須永中尉をああいう姿にしたと言う驚き、そして時子自身も、夫への償いと夫への愛のために、夫と同じ姿になってしまうところは、船越英二主演の「盲獣」のラストシーンそっくりであります。
「虫」は、乱歩地獄サイトの感想掲示板でも、笑えたと言う感想が多かったですね。と言うことは、あれはコメディだったのか?
確かに柾木の行動は奇異で、可笑しいと言えば可笑しいのであるが、僕は可笑しいのを通り越して固まってしまい、笑えませんでしたけれどね。
ただ、4編の中では、「虫」が一番、乱歩の原作を忠実に表しているかも知れません。
余談ですが、藤子不二雄Aのブラックコミックにも、「虫」とよく似た話がありました。
皆様こんばんは、ご無沙汰しています
今回は、作品とは関係ありませんが、現実の殺人事件が
快楽殺人や猟奇的な特異な性格と行動による場合に
乱歩先生の作品を参考にしたとか?作品の愛読者だったとか
マスコミが騒ぎますが、乱歩ファンとしては、どのような感想をお持ちになりますか?
私は、乱歩作品%
少年探偵団は、小林少年を団長に、小中学生の少年達で構成されている探偵団ですが、入団資格に何か特別な条件があるのでしょうか?と言うのも、団員たちは大抵宝石商の子供だったり、大富豪の子弟とか、みんなお金持ちばかりです。間違っても八百屋の子供がいたりとか言うのは、僕の知る限りではまずいません。要するに少年探偵団はお坊ちゃま集団と言うことなのだろうか?
その一方で、少年探偵団とは別枠で、街の浮浪児ばかりを集めたチンピラ別働隊がいたりして、これもまた今の感覚では考えられない話です。
つまり、聞き込みとか、推理したりする部分はお坊ちゃま集団の少年探偵団の役目で、夜の活動とか、ダーティーな部分の役割は、チンピラ別働隊が引き受けるということなんですね。
わかりやすくていいですが、何か極端から極端へ行きますね。
私の記憶が確かならw、天空の魔人では、ノロちゃんと大の仲良しの井上君は、お父さんは元拳闘選手(ボクサーと思えばいいのでしょうか)とあるので特別お金持ちというわけでもなさそうです。
けれど同じく天空の魔人では、おじさん、つまりお父さんの兄弟は旅館を経営しているのでやはりお金持ちなのでしょうか。
チンピラ別働隊のほうは、小林君がホームズ先生の「ベーカー街のくずひろい」(でしたっけ?)をイメージして結成したので、浮浪児が集まったというのは、わかる気はします。それと小林君としては自分より小さい子供たちを、浮浪児のままおわらせたくなかったのではないでしょうか。実際何人かは就職を果たしています。
少年探偵団が結成されたきっかけは、「怪人二十面相」の事件で、狙われた羽柴さんちの息子が、小林君のことを「崇拝しちゃった」上に、友達まで集めたからです。当時のことは良く知りませんが、やはり金持ちの友達は金持ちだったのではないでしょうか。それで自然と金持ちが集まるようになったのでしょう。
先ず少年探偵団の結成が羽柴人脈によるものもあったでしょうが結局、明智探偵事務所って依頼金が高くて私たち庶民には頼もうにも頼めないのではないでしょうか? だから必然的に依頼するのも資産家なら、集まってくる子供たちも死sんかのお坊ちゃま。同じ作品時空で展開する「十字路」にしても結局、悪徳探偵に依頼したことが事件をこじらせる結果になったと思います。だからこそ善悪二人の探偵の対決を(ポプラのリライトではありましたが)やってもらいたかったですね。
サンタ・クロースの起源の聖人ニコラですよね。
「超人ニコラ」ではスーパーマンや天狗と対比しています。これは、次のような連想ではないかと思います。
スーパーマン->赤いマントで空を飛ぶ。
天狗->赤い面で空を飛ぶ。に対して、
サンタクロース->赤い衣装、赤い鼻のトナカイで空を飛ぶ。
(隣が立教大学ですしね)
白虹黒虹さん、始めまして。
「超人ニコラ」を私が読んだのは、ポプラ社版の「黄金の怪獣」改題版で、しかもストーリーや内容については、もう30年も前に読んだもので、すっかり忘れ去っておりますが、この「ニコラ」の由来は、私はてっきり「発明超人」と呼ばれたニコラ・テスラから来ているのだと思っていました。
でも特に根拠がある訳ではないので、白虹黒虹さんの説明の方が正しいのかも知れませんね。
白虹黒虹さま、松村さまこんばんわ。
光文社の「怪人と少年探偵」の660Pに詳細が書いてありました。引用すると、
オーストラリアの作家ガイ・ブースビーの小説”Dr.Nicola”など四作品に登場する主人公で、千里眼などの魔法に通じたドイツの医学博士。また、クロアチア生まれのアメリカ人電気工学者ニコラ・テスラのイメージも投影されているかもしれない。
とあります。
それよりも白虹黒虹様のHNの由来の方が気になるのですが・・・(たぶんあれかなとは思うのですが)
「超人ニコラ」のニコラの由来はともかく、これが乱歩最後の作品みたいですね公式には。スーパーマンと対比云々がありますが、そもそも超人とはスーパーマンの意味ですから、あるいはそこも意識していたのかも知れません。
ストーリーは完全に「猟奇の果」の焼き直しです。「猟奇の果」では、その作戦にひいては国家乗っ取りと言う遠大な計画があり、ある意味オウムを彷彿させるものがあり、考えようによっては非常に恐ろしい話なのですが、「超人ニコラ」は毎度お馴染み怪人二十面相シリーズで、健全な少年読物のため、そこまで恐ろしい話にはしていませんでした。人間改造術などと大仰な事を言っておりますが、平たく言えば要するに整形手術のことで、今ではさほど驚くには値しないトリックです。とは言うものの、自分とソックリの、まるでクローンのように整形手術された人を見たらば、やはりゾッとしますね。
「超人ニコラ」ではまた少年探偵団の七つ道具が何なのか、項目を挙げて具体的に紹介されていたのが印象的でした。
皆様、新参者に多くのレスをいただき光栄です。
実は、地下室の道化師さまからもご指摘の光文社文庫「怪人と少年探偵」の説明よりサンタ説の方が直感的だぞと思い、投稿した次第です。ただし聖人「ニコラ」の読み方は一般的でないらしく、さらに考証が必要なようです。
また、白虹黒虹についてはご想像のとおり大江白虹と園田黒虹からです。まるで漫才コンビの名前にしてしまいました。
超人ニコラでの人間改造については、やはり乱歩の生涯の夢なのですね。おおもとの涙香訳幽霊塔は乱歩の中学1年夏休みの読書だそうですから。
(乱歩に実弟との入れ替わり願望があったと考えるのは邪推でしょうか?)
白虹黒虹様
>超人ニコラでの人間改造については、やはり乱歩の生涯の夢なのですね。
そこから考えると、私はこの作品は二十面相最終作への橋渡しとして書いたのではと思います。
理由として
1)完全な失敗作だった「猟奇の果」への再チャレンジ
2)小林君の活躍が目につく
3)玉村宝石店(魔術師では玉村商店でしたが)の登場=うろ覚えですけど遠まわしに明智探偵の親戚という表現を使っていたと記憶しています。玉村宝石店については、玉村商店との関係は明らかではありませんけど。
>白虹黒虹様
しっていらしたのですね・・・本を読んで「あ、これじゃん!」と得意になって投稿をした自分が恥ずかしい・・・
それにこの話題一つでこうも深く盛り上がれる皆様もうらやましい・・・
最近古本屋で、「鮎川哲也と13の殺人列車」(立風書房)というアンソロジーを購入しました。本書は鉄道に関するミステリのアンソロジーで、編者の鮎川哲也には同種のアンソロジーが幾つかありますが、本書には、天城一や山沢晴雄、その他大学ミステリ研メンバーの創作といったマニアックな作品と並んで、江戸川乱歩名義で大正15年に「婦人クラブ(グラフ?)」誌に掲載された「陰影」という作品が収録されていました。
僭越ながら、そのご報告まで。
乱歩は、自分の名義で発表された作品のうち、他人の代作、名義貸し等であった作品についてはエッセイ等で明らかにしているのですが、現在までに、この「陰影」他、乱歩名義でありながら乱歩の全集には収録されず、また乱歩自身も代作等であると言明しなかった、正体不明の作品が若干あることが確認されています。
今では、この「陰影」は水谷準の代作であったと判明しているようですが、あれほど律儀な乱歩が「陰影」の代作の件について何故沈黙していたのか解せません。
いずれにせよ、この「陰影」という作品を読んでみました。しかし、一読して「これは乱歩とは全く無関係の作品。それに水谷準とも傾向が全く違うし、水谷準にしても下手クソ過ぎる」との感想を抱かざるを得ないものでした。ストーリーは、主人公の男が電車の中で謎の女性に出会い、その危機を救うが、男は、その女性は実は昔別れた妻ではないのかと疑う、然るに、昔の妻から手紙が届いて・・・、というごく短い他愛のないもので、ミステリ的趣向は殆ど存在せず、小説としての出来栄えも芳しくなく、雰囲気も暗くて冴えない、何よりも乱歩の文体とは全く違っており、何というか、乱歩の作品を強いて引き合いに出せば、「一人二役」や「覆面の舞踏者」辺りを、もっと稚拙に、もっと暗く描いた感じの駄作、というものでした。
実際、このアンソロジーでも、「陰影」の本文よりも鮎川哲也の解説の方が分量も多い(笑)のですが、この「解説」で鮎川哲也は、この「陰影」の真の作者について興味深い推理を展開しています。
それによると、この「陰影」の作者は、当時、谷崎潤一郎や芥川龍之介の小説を文体模写で偽造し、詐欺を働いた或る男で、この男は、「新青年」にも短編を1編だけ発表しており、その縁で、乱歩の小説を偽造したのではないか、というものです。因みに、この男は倉田啓明という名で、実は鮎川哲也のアンソロジー「怪奇探偵小説集」に、彼が「新青年」に発表した唯一の作品「死刑執行人の死」が収録されています。
ただ、鮎川自身も指摘しているように、文体模写で詐欺を働いたほどの男にしては、まるで乱歩の文章に似ていないこと、また上述の「死刑執行人の死」と「陰影」にも、さほど共通点がないことが疑問で、むしろ僕としては、水谷準の代作の件はさて置いて、「陰影」の作者の正体は、松村喜雄「乱歩おじさん」に書かれている推理の方がずっと面白いな、と思いました。
実際、こちらで「陰影」の作者とされている人の作品が、これまた「怪奇探偵小説集」に収録されているのですが、そちらの方が、具体的な点を挙げるのは困難ですが、どことなく雰囲気的に共通点があるように思いました。
因みに、こちらで作者と目されている人については、一応、ここでは伏せておきます。詳しくは「乱歩おじさん」をご一読ください。
やや竜頭蛇尾でしたが、以上、ご報告まで。ともかく、探してまで読む価値のある作品ではありませんでした(笑)。
乱歩の偽作と言うか代作は、いくつかあったみたいですね。
横溝正史も乱歩の代作をいくつか書いていました。
長編では「蠢く触手」という江戸川乱歩名義の小説がありましたが、実際は岡戸武平と言う作家が執筆していたらしいです。
また、「覆面の佳人」という小説も、江戸川乱歩・横溝正史の合作小説として出ていましたが、実際は横溝正史の作品で、当時の横溝正史は、それほどメジャーな作家ではなかったので、大御所江戸川乱歩の名前を付けて売り出したのが真相のようです。
韓国人俳優唐龍を売り出すために、ブルース・リーを持ち出してでっち上げた香港映画「死亡塔」みたいな話ですな。
しかし、逆に言えば、代作が続々出てくるくらい、江戸川乱歩のネームブランドと言うのは偉大だったんですね。
だけど、今では大物作家でも弟子に書かせたり下請けに書かせている例もあるくらいだから、代作問題でつついたら、結構ボロボロ出てくるんじゃないかと思いますが、どうなんでしょうか?
そうですね、横溝正史の代作で現在では彼の著作となっている「角男」「犯罪を猟る男」「あ・てる・てえる・ふぃるむ」など、角川文庫で読んでみましたが、「犯罪を猟る男」など、乱歩風に善戦してはいるものの、やはり乱歩の作品とは肌合いが違うな、と感じる出来のものでした。
もっとも、発表当時から読者も感付いていたらしく、「猟奇」誌の読者投稿欄には、「・・・『陰獣』が久々の乱歩の作品?では横溝正史よ、あの『あ・てる・てえる・ふぃるむ』は誰の作品だ?」などと揶揄した投稿が載っていましたね。
まあ、代作として有名なところはともかく、僕としては乱歩が代作だと表明しなかった残りの謎の作品「渦巻」「蜃気楼」「疑問の戦死者」を読んでみたいところですね。
松村 武 様
「渦巻」「蜃気楼」「疑問の戦死者」は、
どちらに掲載された作品ですか?
現在、読めるテキストはありますでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。
>村田鶏鳴さま:
レスが遅くなって済みません。
「渦巻」「蜃気楼」「疑問の戦死者」の初出誌は以下のとおりです。
「渦巻」:「文芸倶楽部」昭和4年8月号掲載
「蜃気楼」:「戦車」大正15年9月号掲載
「疑問の戦死者」:「実話雑誌」昭和6年6月号掲載
なお、アンソロジー等への掲載は全く分からず、現時点で読める媒体は不明です。悪しからず御容赦願います。
内容についてならば、松村喜雄「乱歩おじさん」(晶文社)に紹介されています。
はじめまして。最近になって島田荘司氏の網走発はるかなりを読みました。明智のモデルとして二川至なる乱歩の友人が登場しますが、以前読んだ漫画漱石事件簿には二山久とあり巻末の登場人物メモには二山を島田作品では二川に変えてある。とあります。また、横溝正史氏の呪いの塔には探偵小説大江黒潮と同居していた友人白井三郎なる人物が探偵役で登場します。主人公の郁文社で探偵小説雑誌の編集のかたわら探偵小説を書いている由比耕作は正史自身がモデルのように思えます。由比の友人大江黒潮は探偵小説家になる以前は種々の職業に就きシナそばの屋台も引いたことがある等乱歩がモデルのようにも思えます。ところが黒潮と若いころ同居し探偵小説について語り合った白井三郎の名前は平井太郎を思わせ、黒潮と白井どちらも乱歩がモデルのようにも思われるのですが、同時に二山が実在したとすれば白井は二山がモデルのようにも思えます。明智のモデル二山久は実在したのでしょうか。まとまりのない文章で恐縮ですが、どなたか教えてください。
>ほんきいとんく様
お尋ねの件につき、以下のとおり回答いたします。
先ず、二山久氏は実在の人物です。彼は乱歩の鳥羽造船所勤務時代の同僚で、確か乱歩の上京に続いて上京し、乱歩の下宿に転がり込んだのだと思います。
乱歩が作家としてデビューした後も、暫くの間は、資料整理、調査などの助手をしていたらしいですが、確か昭和5、6年頃に乱歩と不仲になり、その後のことは分かりません。
二山氏が明智小五郎のモデルであるとする島田作品と漫画の漱石事件簿については、真偽は分かりませんが、乱歩の甥・松村喜雄氏が書いた「乱歩おじさん」(晶文社)では、「二山氏モデル説はフィクションである」旨が記されていたと思います。
また横溝正史「呪いの塔」は、二山氏のモデル云々よりも先ず、同作が乱歩「陰獣」の影響下に書かれた作品、悪く言えば「陰獣」のエピゴーネンである点を考慮すべきでしょう。
それを考えれば、大江黒潮と白井三郎の設定は言わずもがな、ですよね。
以上のとおりですが、如何でしょうか。
松村様お答え有難うございました。
「呪いの塔」が「陰獣」のエピゴーネンであるというか、大江黒潮が大江春泥のエピゴーネンである点には全く同感なのですが、引っ掛ったのは作中白井と黒潮が若い頃同居しており、彼らはしばしば探偵小説について語り合い、白井は思いついた小説的プランなりトリックなりを書きとめた。その後彼から独立した黒潮が二人−いや主として白井の考えたプランによって小説を書き始め瞬くうちに一家をなした。といった記述なのです。又作品中会話の中にしか登場しませんが堀下、大賀、堂下なる探偵小説家はそれぞれ森下雨村、甲賀三郎、大下宇陀児の三氏を思わせ。主人公が勤める出版社郁文社は正史の勤めた博文館を思わせます。いうまでもなく、ストーリーそのものは全くの架空のものですが、前半黒潮殺人の動機と疑われる子爵婦人の乱行を暴く黒潮の小説が登場したり、後半殺人の動機として黒潮が現実の殺人を描写したと思われる小説を書いていたり、と探偵小説による現実の暴露とでも言うべきモチーフが繰り返されたりで私の妄想はふくらんだのです。つまり名前の音の類似から言うと白井三郎は平井太郎だと思わせ、実のところ乱歩の初期作品は二山のアイデアだと正史は作品を使って言っているのではないか。なんら根拠のない全くの妄想なのですが、作中大正12年の関東大震災を9年前と言う記述があり、作品舞台の年代が昭和6年。二山と乱歩が分かれた頃と奇妙に一致したりと益々妄想は膨らみます。
はじめまして、こんにちは。実は『偉大なる夢』という作品についてなんですが、これは乱歩作品の中でどのように位置付けられるものなのでしょうか?また、この作品が軍国主義小説である場合、乱歩にも海野十三のように戦争責任を問われる可能性はありませすか?真に不躾なですがご容赦下さい
幽宮正宗様>
『偉大なる夢』が書かれた頃は、戦争真っ只中で、通俗探偵小説を書きづらい時期であったために、「空想科学小説」と言う名目で発表したものです。しかし実際には犯人探しや謎解きの醍醐味もある一種の変形推理小説でしょう。トリックの種類も、後の作品『月と手袋』でも使用されています。
時勢が時勢なだけに、確かに軍事色が強いですが、別に軍国主義小説とも思えず、従って戦争責任は問われないと思います。
黄光明様>
当時の状況をわきまえぬ質問にわざわざ答えてくださりありがとうございます。わたしも『偉大なる夢』は科学小説の革をかぶった探偵小説と思っております。これは勝手な感想ですが、犯人の出生に秘められた陰謀は、清涼院流水の作品を彷彿とさせられました。
しかし、アレクセイこと田中幸一氏の「「偉大なる夢」への儚き抵抗」を読み、乱歩が国策小説に筆を染めたことについて考えるようになったのです。わたしにとってこの評論はかなり衝撃的なものでした。一応参考までにそのURLを下に記載しておきます。http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/ranpo.html
愚痴のような記事でしたが、どうかご容赦下さい。
江戸川乱先生作品の中に、「悪霊」という中途絶筆の作品があります。
以前テレビのトリビアの泉でも紹介されたこともあるのですが、真犯人は誰であるかという説はあるのでしょうか?
私説でもよいので、カキコ頂ければ幸いです。
>品川太郎さま
お尋ねの件、去る2003年2月頃に、僕がこの掲示板に書き込んだ文章が別に保存されていましたので、それを丸々引用してお答えいたします。
(なお、ドゥーゼ「スミルノ博士の日記」の真相に関しての記述がありますのでご注意ください)
(引用開始)
疑問のお尋ねという訳ではないのですが、ネタバレに絡む話ながら、どうしてもお知らせしておきたいことがありましたので(既にご存知の方もいるかも知れませんが)、此処へ書き込ませていただきます。
(以下、乱歩「悪霊」の犯人を、海外の或る作品と同一にする構想があった旨のネタバレがありますので、ご注意ください)
先日、横溝正史「髑髏検校」(講談社大衆文芸館)の巻末付録の、横溝と都筑道夫の対談を読んでおりましたら、乱歩「悪霊」が中絶に至った頃の話が出てきました。
ご存知の方も多いと思いますが、「悪霊」が中絶した件で横溝は乱歩を辛辣に批判したのですが、後日、乱歩に会った時、「悪霊」の叙述形式の特異な点を捉えて、横溝が「乱歩さん、あれはドゥーゼの『スミルノ博士の日記』と同じ犯人を考えていたのでしょう?・・・云々」とカマをかけたところ、乱歩が頷いた、というものです。
この話が本当だとすると、もしも「悪霊」が完成していたとしたら、あの大トリックを使った、日本での先駆的な作品になっていたということでしょうか。
個人的には、「悪霊」の叙述形式は「闇に蠢く」と同様の単なる演出だとばかり思っていたので、大変驚きましたね。「悪霊」には更に、J・D・カー「プレーグコートの殺人」に似た状況での密室殺人まで登場している訳ですから、これは是非とも完成して欲しかったと改めて思いました。
…尤も、あの犯人の設定で、密室殺人を描写した時点で、この作品は破綻してしまったのかも知れませんが。
なお余談ながら、上記の横溝の話は、横溝自身の某長編(これも同一トリックを使っています)にも絡んだ話でした。僕はこのトリックに、彼のその作品で初めて出会い、腰を抜かすほど驚いたことを思い出します。
(引用終り)
なお補足ながら、ドゥーゼ「スミルノ博士の日記」のメイン・トリックとは「記述者=真犯人」です。
あと、「悪霊」に出てくる「躄車」の暗号や、密室トリックについても、幾つか説があるらしいですが、僕は寡聞にして知りません・・・。
> 松村様
レスありがとうございます。
また、貴重なお話を教えて頂きありがとうございます。
横溝正史先生が、乱歩先生に直接確認したことなので、間違いない説ですね。
以前より「悪霊」の真犯人が誰であるかということが気になっていたものです。
一時期、Google等の検索エンジンで色々なキーワードを使ってWebを調べたのですが、確かものを見つけることは出来ませんでした。
記述者が犯人だということで、あの作品を読んでみたいと思います。
こんばんは、いつもお世話になります。
先日、古書店で「黒い虹」を見つけ合作探偵小説に触れました
多彩な作者での作品ですが、探偵小説と言うより殺人小説のようで
最後の筆者が、大変苦労されまとめて犯人や動機を考え
終了していました。
他にも作品が何作か有るようですが、お好きな作品や合作探偵小説
についての感想を、お聞かせください。
また勉強不足で、間違いかもしれませんが「江川蘭子」
のように、乱歩の「人間豹」に登場している江川蘭子と同一人物
何でしょうか?
合作探偵小説と言うよりは、連作探偵小説ですね。
江戸川乱歩が関わった連作小説は、時代物も含め何冊かありますが、僕が一番好きなのは、「畸形の天女」ですかね。
いい歳したおじさんが、女子高生に恋をしてしまうところが、理屈抜きに何ともいいシチュエーションです。ただ、連作というのは、どうしても継ぎ接ぎみたいになってしまって、全体的なぎこちなさは免れないですね。
連作の江川蘭子と、人間豹に登場した江川蘭子が同一人物かどうかはわかりませんが、江川蘭子という名前が、江戸川乱歩の女性形の名前だと感じます。乱歩と蘭子も発音が似ていて、故に江川蘭子も含め、乱歩小説には蘭子と言う名前の女性がちょくちょく登場します。「盲獣」の水木蘭子然り、「大暗室」の花菱ラン子然りである。
今晩は死郎さん。
私は「江川蘭子」を読みました。「畸形の天女」も続きが読みたかったのですが、もう絶版という事で入手出来ませんでした。残念です。
私は江川蘭子は単純に作品毎に独立させて読んでいます。関連付けると読みづらくて…(苦笑)
こういうリレー形式の作品は最期の人が一番大変ですよね。課題が膨らむだけ膨らんでいますから。
私も乱歩ではあまり合作を読んでいませんので、何かお勧めがあれば是非教えて下さいね。(笑)
何だか感想だけになってしまいまして…すみません。
マリィ様
未読ですが悪霊物語など如何でしょう。第1話江戸川乱歩、第2話角田喜久雄、第3話山田風太郎の各氏が執筆してます。第3話は明智小五郎VS加賀美圭介もありますYO!
こんばんは、死郎です
「虫」を読んでの疑問です
死骸を「永久」にと防腐処理の努力をしますが
腐敗が進み、最後に「ミイラ化?」と話は進みます。
最後は、二人共腐乱死体として発見されます。
乱歩作品には、永遠に、愛する人、美しい人の死骸を
いろいろな方法で「永久化」する作品が、「虫」以外の作品にも
ありますが、「白日夢」や「黒蜥蜴」の蝋人形で成功するのでは
不味いのでしょうか?
「虫」が映画化され木下芙蓉役?の緒川たまきファンですいません
>死郎さま
先ず初めに確認しておきますと、「虫」の主題、乱歩がテーマとして構想していたことは、彼の「自作自註」にあるとおり、
「(前略)この虫はウジではない。目に見えない極微の虫である。それが死体を、スロー・アンド・ステディに腐蝕して行く恐怖が、この小説の中心題目であった。(後略)」
ということです。
ところが実際の作品では、前半の、木下芙蓉殺害に至る経緯が少々長すぎてしまい、乱歩の意図していた「極微の虫が死体をスロー・アンド・ステディに腐食してゆく」過程が十分に描ききれずに終わったものです。
彼の他の作品においては、屍蝋、或いは蝋人形などで、死体を永久保存するアイディアは出てきますが、「虫」においては勿論、そのことを忘れていたというよりも、永久保存に成功してしまっては、作品の主題が活きてこないから、わざと放念したものでしょう。
因みに、主人公・柾木は、木乃伊を作ろうとして失敗、死体を腐敗させてしまったので念のため。
・・・もっとも、個人的には、後半が克明に描かれていない現状の作品でも、後半の主人公の倒錯心理の暴走と焦燥は見事に描かれていると思います。「なんだっけなあ」などと言いつつ、最後、路上でお辞儀をする辺りの描写など、人間が精神のバランスを崩す瞬間の描写として出色の部分だと思います。
この部分は、夏目漱石「それから」のラストシーン、真っ赤なポストが主人公・代助の目に飛び込んできて世界中が真っ赤になる、かの有名なシーンに匹敵するとも思います。
>松村様
大変表現が悪く、ご指摘のとおりで、乱歩先生の「虫の恐怖構想も理解して」疑問と書いてしまいましたが、疑問ではなく
映像作品に脚色されたらに訂正します。
ドラマや映画になり、主人公の努力と失敗も・・・
後半の描写も映像化で、リアルに(CG)等を考えた時
女優が違えば、原作で%
>松村様
大変表現が悪く、ご指摘のとおりで、乱歩先生の「虫の恐怖構想も理解して」疑問と書いてしまいましたが、疑問ではなく
映像作品に脚色されたらに訂正します。
ドラマや映画になり、主人公の努力と失敗も・・・
後半の描写も映像化で、リアルに(CG)等を考えた時
女優が違えば、原作でいいのですが、・・・・
松村様 大変身勝手な書き込みですいませんでした。
>死郎さま
どうぞお気遣いなきよう。
僕としても、本件に託けて、「乱歩『虫』と漱石『それから』における結末のカタストロフの類似性」を指摘する機会を得ることが出来ましたので(笑)。
お久しぶりです、死郎さん。
緒川たまきさん…透明感のある女優さんですよね。
原作のような序々に腐敗していく様子は…見たくありませんよね。(笑)
私は…松村さんの様に詳しく無くて…単純に作品を読んだだけの感想なのですが。
愛造は臆病で怖がりでありながらも、大胆で行動的ですよね。愛情もこの表裏一体な感じで、永遠に離れたくないと普通に感じただろうと思います。確実に自分だけを愛して見詰めていてくれる絆が欲しい…でも何が確実なのかが判っていない…中途半端な子供…だった印象を受けました。だから先ず形から入る死蝋化?でもコレは技術不足で失敗…序々に崩れていく芙蓉に恐怖を感じつつも、決して手離そうとしません。
愛造には…段々芙蓉が現状とは違う…崇高な存在に観えて来ていたのかも知れませんね。ダヴィンチがあのもう一枚のモナリザをずっと手放さなかった様に。最期に一体化してしまった所にそういう印象を受けました。見つけたのでしょうね…確かな何かを…芙蓉のその中に。「母」の様な愛情も、求めていたのかも知れませんね。
そういう意味では、聖母の様な演出がされると、緒川たまきさんにはピッタリ…な気がします。清らかで、美しい緒川たまきさんが演出されるといいですね。(笑)
「乱歩地獄」…今から楽しみです。
マリィ様 お久しぶりです
この虫は、マリィさんの書き込み頂いた。「乱歩地獄」のお誘いより 発生いたいしましたが、私の提案の書き方が、
たまちゃんが・・で心が動揺してしまいました。(冷笑)
なにをあせってるんでしょうね(笑)と反省 本題に
作品の冷静な感想は、マリィさんの書き込みと同様です
死朗×(死蝋)に失敗も異常な愛情と真理が肉体が失われても
例え骨となっても愛情は変わらないのでしょう?
形が変化しても、自分自身の中に生前の彼女は生き続ける
究極の愛情表現かもしれません?
殺したい程好きな人とは、変な表現ですけど・・
あなたを死ぬ程好きですが、ノーマルとすればですが
愛情も快楽や欲望が先攻すると専有欲が本来の心理を破壊し
独占欲が支配して行動するのでしょ(心理学的見解?)
永遠とは=潜在的欲望の形? ゆがんでますか?
申し訳ありませんが、乱歩ネタでも探偵小説ネタでもありません。
マリィさま。
遅ればせながら泉鏡花の「外科室」読みました。私の乏しい読書歴から思い出してみると手術モノと言うと遠藤周作の「海と毒薬」(こちらの手術シーンも結構緊張します)くらいでした。やはり手術の描写というのは読んでいて身体が硬くなりますね。
さて本題に入りまして、・・・この夫人は初めからから死ぬ気だったんですね。麻酔を断わった理由が「夫にも言えない事をうわごとで言ってしまうかも・・」ということですが、立ち会った夫の立場で聞かされると、「男がらみだな」と気づきますよ。つまり手術後の夫との生活を考えていなかったということ・・・死ぬ気だったんですね。そして医者の高峰様に殺して欲しかったんですね。さらに考えるに、この夫人にとって病気になったことは「高峰様に気持ちを伝えられる」という千載一遇のチャンスだったのではないでしょうか。
一目見ただけの人間をここまで愛せるのか。そんなにまで思い焦がれるのか。痛さに堪えることで、相手への思いの深さを伝えることは可能なのか。・・・この小説が発表された当時でもこの様な事は不可能だったに違いない。しかし不可能だからこそ、その情熱に憧れてしまう。
さらに、当時よりもあらゆる事で満たされている現代ではもっと不可能になっているはずである。この小説は不可能な時代になればなるほど、その情熱に読者を熱くさせてしまう物語なのではないでしょうか。
あと、「私を知りますまい!」に対する「忘れません。」がいいですね。「知っています。」ではなく「忘れません。」。
これがよかったです。
目羅隊長さん、ご無沙汰しております。
「外科室」…お読みになられましたか?
短い小説ですが…唯恋と言ってしまうには、余りに重い感情に一瞬戸惑いますよね。(笑)
「不可能」な愛…だと感じられたのですね。(笑)そうですね。一目見ただけで…そんな経験がある人と無い人とでは、この作品の感想は…大きく違ってくると思います。
私は…「運命」だと感じました。二人の間に密かに儚く、でも確実に繋がっていた運命の赤い糸の存在。病気になった事で確信したのかも知れません。
恐らく…現世では結ばれなくとも、来世ではきっと…そういう想いが生まれて…でもそれは余りに突飛で不確かで恐ろしい考えだった…と思います。
でも、出会ってしまった運命の人に、生まれてしまった想いを抱えたまま、現在の夫と暮らす事は…もう考えられ無い事だったろうと思います。何だかそういう気持ちは…解る様な気がします。
運命の引き金の病に、心細い確信を委ねて、それでも溢れる不安が言わせた言葉が「私を知りますまい!」だったのかも知れません。その返答が「忘れません。」だった事に…どれ程の安堵と喜びを感じた事でしょう。譬えこの身が助からなくても、必ずこの人と結ばれる運命を確信して、自分の意思で飛び立った…という感想を持ちました。(笑)
ラストの回想シーンが…女性としては…報われる、というか癒される…気がして、ますます鏡花に惹かれてしまいます。(笑)
マリィさん、お返事ありがとうございます。
>一目見ただけで・・・そんな経験がある人と無い人では・・
私、最近全く恋愛をしていないのでヤボ状態が続いています。(笑) 私の場合、基本的には一目惚れはないですねぇ。(笑)
だけど、マリィさんのお言葉に刺激されて、過去の私の乏しい恋愛経験を回想してみたのですが、そういえば一回だけ強烈な「想い」をしたのがありましたよ。
二十年くらい前、電車の中でとても綺麗な女性を見つけドキドキした事がありました。あのときその女性が下車する駅で私も降りて後をつけようかどうか車内で真剣に悩みました。結局やめてしまいましたけど。
あの当時は「やっぱり行動すべきだったかなぁ」と後日悔やみました。
今では彼女の面影はすっかり忘れてしまいましたけど。
もしかしたら、あの感覚ですかねぇ。どうも私の例は卑近かもしれませんが・・・。けど、あのときの感覚を思い出すと「外科室」が身近に感じられましたよ。
どうもストーカーの様な恥ずかしい話をお聞かせしてすみませんでした。
でも、おかげで当時を思い出し、少ししんみりできました。
(同書の内容に関する言及がありますので、未読の方はご注意ください)
既にアイナットさんからもご報告ありましたが、乱歩と小酒井不木の往復書簡を集成した「子不語の夢」を購入、読了しました。
本作は、乱歩デビュー直後の状況や、乱歩がプロ作家となる前後、休筆時の舞台裏が分かる点など、資料的にも第一級のものであり、個人的には、「白昼夢」執筆に当っての「屍蝋」を巡る二人のやり取り、「踊る一寸法師」の元ネタの件、「健全派」「不健全派」を巡る二人の心情あたりが非常に面白く読めました。
また「脚注」の充実ぶりも素晴らしいもので、一番驚いたのは初期短編「疑惑」「夢遊病者の死」における「父親殺し」の解釈の件で、これには目からウロコが百枚ぐらい落ちました(笑)。
しかし何よりも、一番感銘したのは、この書簡の一連のやり取り全体が、まさに一編の「物語」になっているところでした。
これから読まれる方のために細かい点は省略しますが、不安と自負を抱えてデビューした乱歩が、やがて大きく羽ばたいてゆき、それに対する不木の、乱歩に寄せる賞賛と期待、そして順調に作品を発表し続けていた乱歩がスランプに陥った時の不木の心配りと、余りにも残酷な急転直下の結末・・・。
特に後半は、乱歩からの書簡に未発見で収録されていないものがあるとは言え、「既に愛情は冷め切ってしまい、心が離れてしまった恋人に対して切々と心情を訴え続ける人の痛ましい告白」を読むかのようで、圧巻というか、実に切ないものがありました。ラストの乱歩からの書簡を読み終わり、巻を閉じた時には「これで全てが終わったのか・・・」と溜息が出てしまいました。
ここには、全編を通じて、二人の人間の人生が探偵小説を通じて交錯し、心を通わせながらも、やがて別れてゆく、凡百の小説には表現し得ない「真実の物語」があるように思いました。
殊に、不木の最期の言葉と伝えられている「三日生きたい・・・、本当は三年生きたい」という言葉を思い起こす時、「人生はかくも残酷なものなのか」との感慨が胸に込み上げてきます。
・・・価格はやや高めですが、乱歩ファンなら値段以上の価値を見出せるでしょう。「絶対に買い」の一冊です。
但し、乱歩を「偶像視」している方は読まれないほうが良いかも知れません。僕の感想もここに書き切れないぐらい色々あるのですが、その中には「乱歩って、かなりイヤな野郎だなあ」というのもありましたので(笑)。
後年の不木に対する態度もそうですが、彼以上に乱歩にとって恩人たるべき森下雨村を「君」呼ばわりする箇所に至っては、何かの間違いではないのか!?と信じられないものがありました。まあ、ただの天然ボケ、書き間違いだと思いたいところですが、悪意で解釈すれば、「この調子だと、乱歩は雨村宛ての手紙では、不木を『君』呼ばわりしているかも・・・」とも考えられますので。
なお「脚注」で一点だけ不可解な点があったので一言。
「新青年」を「探偵小説専門誌」と冠した表現があったようですが、一部の別冊、増刊、特集号を除いて、「新青年」が「探偵小説専門」の雑誌であったことなど、ただの一度もないと思うのですが・・・。
ご批判、ご叱正等賜れば幸甚です。
物語とは、言い得て妙ですね。まさにその通りの感覚です。
不木の最期を追って行くに及んでは、何の前触れもない命の儚さというものを改めて思い知らさせるばかりでした。
それにしても裸の乱歩に対する意見は手厳しいですね。
まぁ、これは公開されるわけがない非公式な私書ですし、乱歩的にも相手が不木だけにリラックスして書きすぎた点もあったのではないでしょうか? それに森下雨村に対する君付けも、あるいは雨村に対してもそれほどの親密さを感じていたと考えることも出来るでしょうし(全く根拠のないフォローですけど)。
ともかくも、心理的にみても面白い書簡集だったかもしれません。
>アイナットさま
レス有難うございます。
乱歩に対する評価、やはり辛口過ぎましたか(笑)。
まあ、当時は二人とも、飽くまで私信の積もりで書いた内容だったのですから、仕方がないと許容すべきでしょうかね。
また再読、三読してみて、気付いた点などがあれば、まとめて感想を書いてみたいと思います。
・・・今のところは、芥川龍之介の自殺がこの二人、特に不木に与えた影響とか、書簡において構想、アイディアのみが語られ、実現しなかった乱歩の幻の作品群(後に別のプロット等で復活していますが)を巡る解釈などにつき、考えてみようかなと思っています。
松村さん。え〜っ私も「さん」呼ばわりは…マズイですか?(笑)
まだ購入していなくて…アイナットさんの文を読んで…迷っていました。でも…読んでみたくなりました。(笑)
ココの所映画三昧が高じて、週に5日(一日に一本と言う事は無いので本数でいえば10本以上)は映画観てるので…購入となると二の足を踏んでいました。
でも面白そうです。興味深い解説を有難う御座いました。
今晩は皆さん。
こんな質問をしては身も蓋も無いとは思いながらも、どうしても気になって仕方がありません。
何だって北園壮助はこんな手紙を書いたのでしょうか?
犯罪者の心理なのでしょうか?
誰かに言いたかった…のでしょうか?
これが犯罪心理とかいうものかもしれませんが。
謎です…
>マリィさま
僕もマリィさんの読後感想を拝読して考えてみたのですが(今、手元に本文がないので記憶で書いていますが)、北園氏の書簡による事件の告白には、以下のような動機が挙げられると思います。
先ずは、ごく当たり前の考えですが「犯罪者の自己顕示欲による真相暴露」でしょう。犯罪者の自己顕示欲については、卑近な例では、現実に起きている犯罪事件で幾らでも例が挙げられると思います。最近では、奈良県の小学生誘拐・殺害事件での携帯電話の件なんかが典型的な例でしょうね。
もう少し高級な例を引き合いに出せば、乱歩自身が心酔していたドストエフスキー「罪と罰」のラスコーリニコフの心理でしょうね。老婆殺しの犯人ではないかと疑っている検事(今、名前を思い出せませんが)に出会ったラスコーリニコフが、手元にある沢山の新聞を見せびらかして「検事さん、僕はこんなに新聞を取り寄せて、一体、何を読んでいたと思います?あの老婆殺しの記事ですよ」と挑戦的に話し掛ける有名なシーンに代表される心理です(乱歩自身のエッセイ「スリルの説」にも引用されていますね)。
同様のテーマは更に極端な形で、E・A・ポオ「天邪鬼」で、自分が犯人であることを隠さなくてはいけないのに、群集の中で「自分が犯人だ!」と叫んでしまう、あの心理にも繋がります。
次いで、考えられる動機は、これまた当たり前の解釈ですが「死期に瀕しての改心」ですね。死を目前に控えた北園氏が改心した、とする考え方で、盗んだ金に利息を付けて返済していることが傍証になるでしょうか。まあ、むしろ、あの事件によって得た地位も幸福も、死期に望んで、もうどうでも良くなった、と考えるのが正しいのかも知れませんが。いずれにせよ、「秘密を抱えたまま死ぬのは一寸惜しい、どうせ後顧の憂いはないのだから、真相を伝えておこう」と考えたのかも知れません。
・・・なお、これは少々突飛な考え方ですが、この小説には、北園氏の心理云々以前の問題があると思います。
それは「作者の乱歩本人の事情」という点です。
乱歩の作品、なかでも初期短編群などの代表的な傑作の多くは、かなりの割合で、その物語の語り手が登場します。それは「私」なるワトソン役であったり(D坂、黒手組など)、或いは事件の関係者の思い出話(押絵、目羅博士、何者など)であったり、「堀越捜査一課長殿」と同様、関係者の一人の手記という形式(闇に蠢く、悪霊)、また語り手の事件との関連は曖昧ながらも、物語を誰かが語っている形式(パノラマ島、屋根裏など)、そして語り手の「私」の立場そのものが一種のトリックとなっている作品(二銭銅貨)など、枚挙に暇がありません。厳格な三人称の形式で叙述した小説のうち、通俗長編群を除く傑作としては、「二廃人」「心理試験」「月と手袋」ぐらいしか、今思い出せません。
要するに、乱歩は本来的に物語作者として優秀だったのであると思います。
ここで「堀越捜査一課長殿」発表時の状況に立ち返ってみれば、前年の「月と手袋」では例外的に三人称形式の小説で先ず先ずの成功を収めたものの、もはや作家としてのピークはとうに過ぎ、戦後作品の殆どが精彩の欠けるものが多い状態にあった乱歩は、小説の構成云々へ配慮を配る気力もなく、単に自分が最も書きやすい形式に流れてしまったのではないかと推測されます。乱歩も還暦を過ぎていたし、それが悪い、とは思いませんが、本作における「隠し場所のトリック」等が、全て先行する海外の著名作品の焼き直し(初期短編群にも幾つかありましたが、一捻りしたり、もっと工夫を重ねて自分のものにしていました。なお戦後の短編には、もっと露骨な焼き直しもあります)に過ぎない点からも、乱歩の熱意がどの程度のものかは判断できます。
こうした熱意の欠如により、ただ単純に、書簡体という物語作者にとって一番安易な方法(物語作者に限らず、極論すれば単なる語り手の手紙なのですから、その書簡の構成そのものに仕掛けがないのであれば、これは簡単な方法でしょう)を採らせてしまったのではないか、とも思います。
取り急ぎ、現時点で考え付く点を書いてみました。反論等、ご叱正を賜れば幸甚です。
今日は。松村様。ご見解有難う御座います。レスが遅れてしまいまして申しわけありません。
私は松村さんの書かれた「作者の乱歩本人の事情」の部分を興味深く読みました。そういう知識やエピソードを伺ってから読むとまた違った作品として楽しむことが出来、思わず松村さんのレスを拝見してから6回も読み倒してしまいました。ごめんなさい、2回目くらいでレス書くべきでしたね。(苦笑)でも実はもうチョット読みたいくらいなんですけど…また忘れた頃に松村さんについてレスしてるかもしれません。(笑)
ところで「罪と罰」…中学の頃「パルムの僧院」と並んで、課題図書として出たのを思い出しました。何だかドロドロとした思い出です。(笑)いつも謙虚で紳士的なご見解の大人な松村さんをお手本に私も頑張って乱歩作品を読んでいきたいな、と思います。これからもどうぞ宜しくお願いします。
「押絵と旅する男」についてききたいことがあります。
主人公は魚津へ蜃気楼を見に行ったといいますが、親しい友人にはそれを否定されています。これは、どういうことをあらわしているのでしょうか。主人公は魚津へは行っていない、としたら蜃気楼を見たことも嘘になってしまうのでしょうか。
>優さま
確かに本文中に「お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友だちに突っ込まれることがある」と書かれていますね。そして、その後には「そういわれてみると、私はいつの幾日に魚津へ行ったのだと、ハッキリ証拠を示すことができぬ。それではやっぱり夢であったのか」と続いています。
ここで、本文の冒頭に戻ってみれば、「この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったなら、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに違いない」とあります。要するに「AでなかったならBであったに違いない」と言っている訳で、逆に言えば「BでなければAかも知れない」ということです。
だから「やっぱり夢であったのか」と、魚津で蜃気楼を見た事実は無いかも知れないと言うのならば、全てが「私の夢か私の一時的狂気の幻」であった可能性も、決して否定されるものではありません。
そもそも、この話は、そのような「私の夢か私の一時的狂気の幻」でもあったような淡い幻想的な雰囲気を発端として、更に、帰りの汽車の中で出会った不思議な男の話へと展開してゆく、一種の幻想小説ですので、蜃気楼を見たのが事実か否か、どっちであろうとも、更には汽車の中で男に出会ったことも含めて話の全てが「私」の幻や夢であったとしても、小説の構成として一向に差し支えないのではないかと思うのですが・・・。
レスありがとうございます。あと、私は押絵の中の男と、旅をしている男は同一人物だと思っているのですが、根拠がなかなかみつからなくて。どういう風に解説したらいいのかわかりません。よかったら意見をお聞きしたいです。
>優さま
ご指摘の「押絵の中の男=旅をしている男」と考えられるのは、恐らく、本文中に以下のとおり描写されていることに根拠を求められるのでしょうね。
・・・「黒ビロードの古風な洋服を着た白髪の老人が、窮屈そうにすわっていると(不思議なことには、その容貌が髪の白いのをのぞくと、額の持ち主の老人にそのままなばかりか、着ている洋服の仕立方までそっくりであった)」
・・・「細長い老人のうしろ姿は(それがなんと押絵の老人そのままの姿であったことか)簡略な柵のところで、駅員に切符を渡したかと見ると、そのまま、背後の闇の中へ溶けこむように消えていったのである。」
ところで、「押絵の中の男=旅をしている男」であったとすると、彼の兄が遠眼鏡の魔力により押絵の中に入ってしまった、という例の身の上話はウソである、ということになるのでしょうか。
この男は、自分をモデルにした押絵を持って旅をしていたところ、たまたま車中で一緒になった男を驚かせ、一杯食わせてやろうと、咄嗟に、兄が変身したという「作り話」を語ってあげた、ということになるのでしょうか?それにしては、「私」が望遠鏡を逆さまに覗こうとしたときの慌てぶりなど、芝居とも思えないのですが・・・(笑)。
ともかく、個人的には、詰まらない小説になってしまうなあ、というのが正直な感想です。通常のオチのある小説とするならば、それでオチが付いて良いのかも知れませんが、ここは夢か現実か、という幻想的な雰囲気の中で、旅する男の語る不思議な話に酔い痴れるのが、正しい鑑賞の仕方ではないか、と個人的には思います(むろん、どう鑑賞しようと各読者個人の自由なのですが)。
或いは、旅する男こそ、押絵の中に閉じ込められた兄その人であり、彼の身の上話どおりのことが起こったが、列車の中で出会った「私」に自分の身の上話をしてあげたくなり、一時的に押絵から抜け出してこの世に現れた、と全くの怪談として考えるのも如何でしょうか。どうも上手く纏まらない感じですね。
なお、似たシチュエーションで、綺麗にオチを付けた小説があります。芥川龍之介の「西郷隆盛」という短編です。
或る学生が関西から東京へ向かう夜行列車の中で謎の紳士に出会い、その紳士と歴史学に関する議論をするうち、紳士が「西郷隆盛は今も生きている」と言い出し、「何をバカな」と反論すると、その紳士は「現に、この寝台車に乗っている。ウソだと思うなら、そこの寝台を覗いてみろ」を言い、学生が覗いてみたところ西郷隆盛がそこに寝ていた・・・、という話です。もちろん、最後にちゃんとオチがあり、幻想小説でも何でもなく、芥川には良くある、ちょっとミステリアスだけどシニカルな話、といった趣です。
この作品は大正6年発表、乱歩がデビューするより前の小説で、列車内の様子や、謎の紳士の描写などに、少々、「押絵・・・」と似たところがあるのに注目したいところです。デビュー前の乱歩が本作を読んでおり、「押絵・・・」に影響を与えた、とする証拠はありませんが、注目して良いと思います。
また、おせっかいながら、塔の上から遠眼鏡を覗く部分などには、ドイツ・ロマン派の作家E・T・A・ホフマン「砂男」の影響が濃厚なように思えます。
松村様>
そうだったのですか。芥川龍之介の短編「西郷隆盛」、今度チェックしてみます。
芥川龍之介といえば、「羅生門」「杜子春」「藪の中」など、結構怪談じみて、ミステリアスな作品がありますね。中国や日本の古典から結構題材を取っています。
作風は確かに乱歩の探偵小説以外の短編に似ているような気がします。
乱歩自身、ある作品においては、宇野浩二や佐藤春夫に影響されたと言っていたらしいので、ひょっとしたら芥川龍之介の影響も受けていたかも知れません。
今は解散してしまったSPEEDの映画でも、ヒロインの島袋寛子が、パソコンディスプレイの中に入り込んでしまったバーチャルな女の子を演じていたのがありました。「押絵と…」の現代的なパターンと言えましょうか。
押絵と旅する男の考察を調べてます。この話は蜃気楼を見た所から不思議な世界に入り込んでしまったという事なのでしょうか?
一、『怪人二十面相』の初刊本は、昭和十一年十二月の何日かわかるかたいらっしゃいますか??
二、『怪人二十面相』の初出である「少年倶楽部」は何巻何号かわかるかたいらっしゃいますか??
一、私の持っている本には以下のように記載されていました。
昭和十一年十二月二十四日印
昭和十一年十二月二十九日發
二、残念ながら、「少年倶楽部」での掲載号数は分かりませんでした。
一、『怪人二十面相』の初刊本は、昭和十一年十二月の何日かわかるかたいらっしゃいますか??
二、『怪人二十面相化』の初出である「少年倶楽部」は何巻何号かわかるかたいらっしゃいますか??
こんばんは、
乱歩は「現実は夢」と言う言葉を使われますが
作品の多くが(現代では実現可能)ユートピアを想像
されています。夢の世界(小説)を心理の解放
非現実は読者が想像する世界(理想)(解放)(情念)
「現実は夢」どのように感じますか?
死朗様
犯罪者が夢(現し世)の創造者で明智小五郎はその破壊者って感じしますね。
ポケッと小僧さま こんばんは、
明智も例えば黒蜥蜴の中で、人殺し(身代わり)もしています
彼も犯罪者では?乱歩ワールドに境界はないのではとも
この世は、幻・・・
今晩は死朗さま。
「現実は夢」…そうあって欲しいと思う時はありますね。(笑)
人は「現実」で生きて行く時、仮面を付けずに生きていく事は出来ません。いくつもの仮面を使いこなしながら人生の窮地を乗り切って行かざるを得ない事の方が多い様におもいます。
永く生きて行けばいくほど、本当の自分の居場所が現実世界から無くなっていきます。(私だけかもしれませんが・・・)
本当の自分は…深くて暗い心の森の奥で眠らせたまま、生きて行くのですが…
その本当の自分が何処かで開放されたがっているのを感じて…
それを非現実的な世界に投影する事もあります。(現実逃避…ですよね。笑)
乱歩は平素は所謂常識人であったわけですが、それだけに弾ける場所を求めていたのかもしれない…と思いました。
自分をしっかり持った常識的な強い人だからこそ、あれだけ幅広く倒錯できたのかもしれません。だって一度あがったテンションは自力で戻さなければ戻れませんから。(笑)戻せる乱歩は凄い人だと思います。作家でなければ役者さんになっていたかも…ですね。(笑)
マリィ様>こんばんは
多くの仮面を、お持ちのようで、是非私にも貸して下さい
特に、笑顔のありましたらよろしく・・・
仕事が詰まると、言葉が強くなります。
ボイスチェンジャーも在ると私は助かります
現実は、夢で在りたい特に月曜日・・・・
乱歩の時代と現在を比較する事はできませんが
作品のエッセンスが、海外の作品・都市空間に在り
創作するには、何でも在りの現在より、自分自身の想像が
湧き出るのではないでしょうか?
現実を比喩しての言葉で、乱歩の夢かな
死朗さん、はじめまして。
乱歩の「現実は夢」について、私の考えは次の通りです。
たしか、「現し世は夢 夢は幻」という言葉だったと私は記憶しているので、この言葉について改めて考えてみました。
曖昧な記憶なのですが、この言葉から、乱歩は精神的に倒錯状態にあったという説もありましたよね?
私はこの説、あまり好きではありません。
すでに亡くなっている方の言葉をこのように解釈するのは、ミステリーに超能力をもってくるのと同じくらい邪道だと私は考えます。つまり、ネガティブな解釈ですよね。
この言葉をそのまま解釈するならば、「現し世」=「夢」=「幻」となり、すなわち「現し世」=「幻」ということになります。「現し世」=「幻」つまり、現実は幻だ、と読み取ることができると思います。(ただしこれはあくまで「現し世は夢」の夢と、「夢は幻」の夢とが同一のものであるという前提のもとでの解釈です)
幻とは何なのでしょうか? 私の言葉にすれば、「つかみどころのないもの」と言えます。あるいは、「感覚的に認識することはできても、論理的に説明がつかないもの」とも言えるでしょう。
さらに、現し世についても解釈が必要です。今の私には、乱歩の言う「現し世」が、通常言うところの現実を指さないと言えるだけの材料がないので、これはこのまま、「今私たちが生きているこの現実」という意味で解釈したいと思います。
以上から考えるに、乱歩の「現実は夢」という言葉が意味することは、「私たちが生きている現実は、とらえどころがなく、論理的に説明できないようなものだ」ということです。
問題なのはこの解釈の先にあるものです。というのも、こういった意味の言葉を残した人は乱歩が初めではないはずだからです。にもかかわらず、なぜ乱歩はあえてこの言葉を強調したのか。ここから先はあくまで個人的な見解ですが、もともととらえどころのない現実なのだから、それに無理矢理理屈や理由をつけようとすることは筋違いだという意味で解釈できないでしょうか。誰でも、自分の行動や感情に、何かしらの理由をつけたがります。例えば「彼女と出会ったのは運命だったにちがいない」とか「生活のために職に就く」とか。そして、理由や目的を自覚している人こそが価値のある人だというのが通念です。乱歩の時代がそうであったかどうかは定かではありませんが、人間である以上、そういった理由・目的を探しておかないことには不安になってしまうものだと私は思います。そんな人間に対して、あるがままを享けいれるべきだという意味で、「現し世は夢 夢は幻」を提示したのではないでしょうか。
ぜひ、ご意見お聞かせください。
ギルさんの立派な論考に対して特に異論はないのですが、出典等について補足を。
乱歩の言葉、正しくは「現し世は夢、よるの夢こそまこと」ですね。
但し、この言葉は乱歩のまったくのオリジナルという訳ではなく、英国の怪奇小説家W・デ・ラ・メイアの「我が望みは、いわゆるリアリズムの世界から逸脱することにある。空想的経験は現実の経験に比し、一層リアルである」との文句と、E・A・ポオの「この世の現実の出来事は、私にとっては単なる幻影に過ぎない。これに反して、夢の中の物狂わしき影像こそ、私の日々の生命の糧であり、更に強く、かかる夢の国のみが私にとっての全実在である」との文章を乱歩は気に入っていて、これらを縮めた形として「現し世は夢、よるの夢こそまこと」との文句を考案したものです。乱歩自身がその旨を記したエッセイがあります(題名は失念しましたが)。
従って、乱歩がこの言葉に込めた意味合いは、原典となるデ・ラ・メイアとポオの考え方と同一のもの、と考えるべきではないか、と思います。
尤も、個人的な意見を述べれば、乱歩がこれらの言葉を好んだのは、飽くまで自らの小説執筆上の心構え、というか、自ら信ずる芸術上の心得・信条みたいなものだったのではないか、と思います。乱歩が自らの現実の日常生活で、現実を逸脱し、夢の中の幻影に遊ぶことを良しとしていたとはとても思えませんので。
これまで何度も指摘されているように、乱歩本人の日常生活は、きわめて常識的だったそうなので(但し、戦前のデビュー前後の状況は分かりませんが)。
松村武さん、ご指摘ありがとうございます。
勉強になりました。やはり知識がないというのはだめなことですね。
ギル様、松村様有り難うございます
深い意味も、そして言葉の謎も解けました
皆様のように知識の無い私には、本当に勉強になりました
今後も、基本的乱歩知識を、お聞きすると思いますが
よろしくお願いします。
死朗様
乱歩の「疑惑」を読んだ時に自分なりに思った事があります。
普段「理性」で抑制されている心の奥底には、自分では普段気づいていない「本能」が眠っているようです。
心理学的には夢は普段理性で抑えられている自分自身の核である本能の開放の場であるようなのですが、乱歩の「現し世は夢 夜の夢こそまこと」とは夜の夢の中の世界が常識や理性で抑えられていない本当の自己の世界で、現実の世界こそがさまざまなものに抑制され作り上げられた世界だ、と言う意味の様な気がしたのですが、ちょっと乱歩っぽくないですかね。
乱歩は「フロイトの精神分析学」に興味を持っていたようなので、そんな気がしました。
松村武さんの言うように小説執筆上の心構えという面が一番強いように思いますが、なんとなく「疑惑」を読んだ後にこんなうんちくが浮かんだのですが、どうでしょうか?
まさ様
返事が遅くなり申し訳ありません。
「疑惑」を読まれた感想からのお考えは、私も複雑な乱歩世界を
探るポイントとしてヒントになりそうです
松村さん・ギルさん・マリィさん・ポケッと小僧さん
貴重なご意見ありがとうございました。
乱歩作品を読む時の自分自身の心理状態で新しい発見があるかも
再読して考えます