「新青年」それは博文館発行の震災前の大正九年から戦後の昭和二十五年もの長きに渡って君臨した探偵小説雑誌である。当初のコンセプトこそは、初期の目次を見ていただければ納得いくとおり、日本中の青年の志気を高めるものだったが、その最初期から増刊号などにおいて、いち早く海外探偵小説の翻訳を我が国に紹介するなど、その後年の探偵小説総本山時代の可能性の軌跡を既に最初期のころから見ることが出来る。この探偵小説の道へのジワリとした変貌は初代編輯長だった森下雨村の最大功績であり、江戸乱歩の颯爽とした登場も大いに関係している。乱歩の登場によって、急速なペースで日本人創作の本格的道が切りひらかれたからである。むろん、誤解なきように記述しておくと、その乱歩の「二銭銅貨」以前にも日本人の創作は存在した。例を挙げると、西田政治、横溝正史、水谷準などの処女作が新青年の創作募集で採用されているし、同じ博文館の「新趣味」でも探偵小説の募集をしていたり、他に松本泰なども存在した。しかしこの「新青年」及び「新趣味」の募集していたのは、探偵小説といっても、ほんの原稿用紙10枚程度の小品であり、決して海外の翻訳探偵小説から主役を奪えるような代物ではあり得なかった。だが、大正十二年の乱歩の登場以後、同年に「新趣味」でデビューした甲賀三郎、元来より探偵小説評論で成らしていた小酒井不木、他に大下宇陀児、城昌幸などに加え、大正十五年の懸賞募集で秀作を手にデビューした夢野久作、山本禾太郎など大正期の内に随分日本人の探偵作家も随分増えることになり、その動きは昭和になって加速したといって良い。葛山二郎、瀬下耽、海野十三、渡辺啓助、小栗虫太郎、大阪圭吉、木々高太郎、久生十蘭などなど戦前の代表的探偵作家を次から次へと生み出し、そして育てることになったのである。戦後は復活に手間取りすぎたために、その探偵小説誌界の王座を後塵の「宝石」に譲り淋しい退場劇となってしまったが、現在なお語り継がれる「新青年」、これからも未来永劫、そこに探偵小説があるかぎり、人々の口の端に上り続けるであろう。