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明治27年 1894 |
〇歳 | 10月21日、三重県名賀郡名張町(現・名張市)にて平井太郎生まるる。(平井家長男) 両親は同郡役所書記の繁男(27)ときく(18)。 なお、父、繁男は関西法律学校(現・関西大学)第一回卒業生 ちなみに太郎の本籍は同県津市。 まもなく父、繁男の転勤(鈴鹿郡郡役所)と共に同県亀山町(現・亀山市)に移住。 |
明治30年 1897 |
三歳 | 父の転職(東海紡織同盟会名古屋支部書記長)により、父、母、父方祖母わさ、太郎の4人家族で名古屋市園井町に転居。 後に妻となる村上隆子(本名、隆、りう)はこの年生まれる。 |
明治33年 1900 |
六歳 | この年、繁男の三男、通が生まれる。(次男、金次と長女、あさは生まれて間もなく夭折している) |
明治34年 1901 |
七歳 | 名古屋白川尋常小学校に入学す。 |
明治35年 1902 |
八歳 | 母に毎日の新聞小説のストーリーを話して貰うことが楽しみになる。 中でも「大阪毎日新聞」連載の菊池幽芳訳『秘中の秘』で、はじめて探偵小説に興味を覚える この頃より巌谷小波の世界を耽読。 |
明治36年 1903 |
九歳 | この年、繁男の四男、敏男が生まれる。 |
明治38年 1905 |
十一歳 | 名古屋市立第三高等小学校入学。 六歳から親交のある幼なじみの丹下高福らと少年雑誌をこんにゃく版にてはじめる。翌年には謄写版も。 |
明治40年 1907 |
十三歳 | 創立時の愛知県立第五中学(現・瑞陵高校)に入学。 病弱で駈足、機械体操が苦手で学校は病欠気味だった。 夏休みの海水浴の際に行った熱海の貸本屋で黒岩涙香の『幽霊塔』に熱狂。 |
明治41年 1908 |
十四歳 | 父、輸入機器の取り次ぎ販売、外国保険代理、石炭販売兼業の平井商店を名古屋市南伊勢町で開業。 少年期で最も裕福になったこともあり、多額の小遣いを貰って、 活字棒を買い込み、丹下高福、中川善之助らと手押し印刷機で雑誌づくり。 支那密航失敗、五日間の停学処分を受ける |
明治45年 1912 |
十八歳 | 3月、中学卒業。家運傾き、第八高等学校入学断念。 6月、平井商店破産し、一家五人(祖母わさは前年死去)で朝鮮馬山に移住。 父は土地開墾事業に従事するも、太郎は単身苦学決意し、帰国、上京。 本郷湯島天神町の印刷業雲山堂に活版工見習いとして住み込み、 早稲田大学予科二年の編入試験に合格す。 大学在学中は雑誌の編集委員、図書館の貸出係、英語家庭教師などアルバイトに従事。 12月には春日町に転居。 |
大正2年 1913 |
十九歳 | 春から約1年間、母方祖母(本堂つま)と牛込区喜久井町の借家に同居。ゆえにアルバイトから解放され、資金的、時間的にやや余裕が出来、黒岩涙香始め、漱石、紅葉、鏡花など読書三昧の日々。 また、「帝国少年新聞」の発刊を企画するが、こちらはさすがに資金調達失敗より挫折。 8月、予科を卒業し、早稲田大学大学部政治経済学科に進学。 |
大正3年 1914 |
二十歳 | 春、友人と肉筆回覧雑誌「白虹」を発行。 夏頃から同郷の代議士川崎克の政治雑誌「自治新聞」の編集、翻訳などを手伝う。 同じ頃、ポー、ドイルの英文小説に初めて親しみ、同時に心酔。短編探偵小説のおもしろさに開眼し、探偵小説耽読のため図書館通いの日々。 |
大正4年 1915 |
二十一歳 | 帰国してきた父と牛込区に同居。 海外探偵小説を読みあさった成果から、暗号史なども研究し、手製本「奇譚」にまとめる。 また、ホームズ短編3編を試訳。 『火縄銃』を「冒険世界」に投稿するも不採用。 |
大正5年 1916 |
二十二歳 | 末妹、玉子生まれる。 8月、早稲田大学卒業。卒論は「競争論」 渡米を断念し、川崎克のコネで大阪の貿易商社、加藤洋行にて住み込み就職するも一年と長続きせず、職業転々の時代のスタート。 |
大正6年 1917 |
二十三歳 | 7月に加藤洋行を辞めて、失業。数ヶ月放浪。(放浪癖はじまる) その間に伊豆伊東温泉(現・静岡県伊東市の温泉)ではじめて谷崎潤一郎作の『金色の死』を読み驚喜す。 放浪を終え、大阪に移転していた父の元に寄寓し、この間に『火星の運河』を執筆。 11月、三重県鳥羽町(現・鳥羽市)の鈴木商店鳥羽造船所電気部に就職。技師長桝本卯平に庇護され、社内誌「日和」の編集に携わる。 |
大正7年 1918 |
二十四歳 | ドストエフスキーを初めて読み、傾倒 造船所の同僚と「鳥羽お伽会」を組織、劇場や小学校を巡回する内に坂手村小学校教師村山隆子と知り合う。(※志摩郡坂手村は昭和17年に鳥羽町(現・鳥羽市)に編入) |
大正8年 1919 |
二十五歳 | 1月、鳥羽造船所を無断で辞職。 2月、弟2人(通、敏男)と上京して、本郷区(現・文京区)駒込団子坂で古本屋「三人書房」開業。 そのかたわら、7〜9月「東京パック」の編集に従事し、戯文や漫画を書く。 また、浅草オペラ後援会を組織して田谷力三を後援。 11月、「三人書房」が営業不振に陥り、支那そば屋を開業。 その月、村山隆子を迎えて結婚。 |
大正9年 1920 |
二十六歳 | 1月、博文館から「新青年」創刊される。 2月、東京市役所社会局に奉職するも、半年で退職。 夏、居候の井上勝喜と智的小説刊行会を計画し、雑誌「グロテスク」江戸川藍峯名義で『石塊の秘密』(『一枚の切符』の原型)を予告するも、「読売新聞」に会員募集の広告も空しく、反響もなく、挫折。 10月、古本屋「三人書房」を完全廃業し、大阪の父の家に夫婦で身を寄せ、大阪時事新報記者となる。 この年は一年を通して、貧窮のどん底だった。 |
大正10年 1921 |
二十七歳 | 2月、長男隆太郎誕生。 4月、日本工人倶楽部に書記長として招かれて上京、同じ倶楽部には後の甲賀三郎もいた |
大正11年 1922 |
二十八歳 | ポマード製造所の支配人となるも、財界不況のあおりをくい、閉鎖。帰阪して大阪市外守口町(現・守口市)の父を頼って、妻子共に帰る。 9月、失業の暇に任せて、『二銭銅貨』、『一枚の切符』脱稿。 一面識もない馬場弧蝶の元に送り、推薦を請うが返事ないため取り戻す。 改めて「新青年」の編集者森下雨村に送る。雨村は一読の元に才能を認め掲載を約束するも、時代が時代、職業探偵作家などは考えられなかったため、12月から堂島の大橋弁護士事務所で失権株の取り立てを手伝う。 この時から筆名を江戸川乱歩に改める。 |
大正12年 1923 |
二十九歳 | 小酒井不木の推薦文付きでデビュー。 父の家を出、京阪電鉄沿線の門真村(現・門真市)に転居。 7月、大阪毎日新聞社に広告部に就職。 (9月、関東大震災) |
大正13年 1924 |
三十歳 | 4月、大阪市外守口町に転居。 9月、父の喉頭癌のため、再び同居。 11月、作家専業を決意し、大阪毎日新聞社退社。 |
大正14年 1925 |
三十一歳 | 『D坂の殺人事件』と『心理試験』が大好評で、「新青年」から毎月連続読み切りを依頼される。 1月、上京の途次、名古屋で小酒井不木に初めて会い、東京では森下雨村を訪ね、「新青年」寄稿家たちに紹介される。また団子坂以来愛読してきた宇野浩二とも面識を得る。 4月、大阪で春日野緑、西田政治、横溝正史らと「探偵趣味の会」を興し、9月機関誌「探偵趣味」創刊号を編集。 7月、第一創作集『心理試験』(春陽堂)を刊行。 9月、父繁男、喉頭癌にて死去。 10月、新興大衆文芸作家の二十一日会同人となる。 11月、横溝正史を同伴して上京、はじめてラジオで講演放送をする。 |
大正15年 1926 |
三十二歳 | 1月、妹玉子と一家5人で上京し、東京市牛込区筑土八幡町に借家住まい。 5月末、大阪放送の依頼で出張ラジオ講演、翌月神戸に横溝正史を訪問。続いて横溝を上京させ、森下雨村に計らい、博文館に入社させた。 9月、探偵趣味の会主催の寸劇「ユリエ殺し」を上演。 この年初めての長編を3本同時連載を開始したが、たちまち行き詰まり、『空気男』は掲載紙の廃刊を幸いに中絶させたが、残り2本の長編は休載を重ね、『湖畔亭事件』だけはともかく完結させるも、『闇に蠢く』は未完のまま翌年刊行、同年に平凡社版現代大衆文学全集『江戸川乱歩集』収録の際、3章を加筆してようやく完成させた。 |
昭和2年 1927 |
三十三歳 | 3月に石井漠主演の『一寸法師』が映画化上映されるも、皮肉にもその自作の『一寸法師』に対して嫌悪感を抱き、初の休筆宣言。 東京府下戸塚の早大前の下宿屋の権利を購入し、そこを妻に営ませ、乱歩自身は数ヶ月に及ぶ放浪の旅へ出る。 12月、大衆文芸合作組合の耽綺社に参加。 |
昭和3年 1928 |
三十四歳 | 2月、扁桃腺を剔出手術。 4月、早大前の下宿屋の権利を売却し、同じ戸塚町の地で新たに社員寮「緑館」を購入。再び下宿屋を始める。 久々の連載の『陰獣』(新青年増刊)が大評判。 この頃から、萩原朔太郎、稲垣足穂との交遊始まる。 |
昭和4年 1929 |
三十五歳 | 博文館編集局長になった森下雨村の懇望から、新創刊の「朝日」に『孤島の鬼』の連載を開始する。 2月、耽綺社合作第一作『空中紳士』刊行。 4月、小酒井不木博士死去。以後、小酒井全集刊行に尽力する。 6月、博文館から初めての随筆集『悪人志願』刊行。 この年、講談社の大部数娯楽雑誌(「講談倶楽部」)に長篇(『蜘蛛男』)連載を始める。また、改造社の「世界大衆文学全集30」『ポー・ホフマン集』を翻訳する。 |
昭和5年 1930 |
三十六歳 | 10月刊行の『蜘蛛男』がベストセラー。 先進社から短篇集『明智小五郎』を刊行。 知名度も飛躍的に高まり、昼間も雨戸を閉ざした書斎で蝋燭を灯して執筆するという伝説が捏造された。(『陰獣』の影響もありそうだ。) |
昭和6年 1931 |
三十七歳 | 前年8月より小説の資料集め助手を務めていた二山久と口論、この年1月に絶交に至る 5月、平凡社より初の個人全集『江戸川乱歩全集』全十三巻刊行開始。その付録雑誌「探偵趣味」編集に井上勝喜を起用する。 同5月、肋膜炎に罹った妹の玉子を母とともに別宅で療養させる。 11月、下宿屋で下宿学生による下宿争議が起こり、嫌気がさして下宿屋廃業す。 |
昭和7年 1932 |
三十八歳 | 岩田準一との交友が繁く、古代ギリシャへの興味が深まる。 3月、2度目の休筆宣言、家族をつれて、関西(殊に京都・奈良方面)旅行。 6月、妹の玉子死去(享年16歳)。 7月から8月にかけて単身東北旅行に出かける。 |
昭和8年 1933 |
三十九歳 | 1月、大槻憲二主宰の精神分析研究会に参加。例会にも出席し、機関誌「精神分析」にも寄稿。 4月、下宿屋「緑館」売却、芝区車町(※芝区は現・港区)に転居。J・A・サイモンズを耽読。 |
昭和9年 1934 |
四十歳 | 1月、車町の新居界隈の交通騒音に耐えかね、麻布区(現・港区)の張ホテルに長期滞在する。 7月、池袋3丁目に転居、この地が終の栖となる。 |
昭和10年 1935 |
四十一歳 | 前年の「悪霊」の中絶という大失敗、また『石榴』が一般誌(「中央公論」)で大きく扱われて文壇の反感を買い、創作を離れて評論、編纂などに主に従事する。 1月、平凡社から『江戸川乱歩傑作撰集』が順次刊行。 5月、蓄膿症手術。 9月、『日本探偵小説傑作集』を編纂、春秋社より刊行。 12月、九州一周旅行に出る。 |
昭和11年 1936 |
四十二歳 | 前年末よりはじめて少年物(『怪人二十面相』)連載開始。 3月、夢野久作死去、全集刊行に尽力。 5月、春秋社から初の評論集『鬼の言葉』刊行 |
昭和12年 1937 |
四十三歳 | 甲賀三郎・木々高太郎の芸術論争。 春、手術の影響で右瞼が痙攣し始め、年末には乱視遠視の眼鏡をかけ始める。 6月、版画荘から短篇集『幻想と怪奇』を敢行。 執筆のため、7月は高野山(※和歌山県伊都郡高野町)に、9月は信州中房温泉(※長野県南安曇郡穂高町→現・安曇野市)に滞在する。 |
昭和13年 1938 |
四十四歳 | 探偵雑誌が次々と廃刊し、「新青年」も戦時色を強めてくる。 9月から新潮社より『江戸川乱歩選集』全十巻を順次刊行。配本の後半で検閲が厳しくなり、文章の差し替えが行われる。 |
昭和14年 1939 |
四十五歳 | 3月、『芋虫』が反戦的とされ、警視庁検閲課より、作品集から全篇削除を命じられる。(『芋虫』発禁)表向きの発禁はこの一篇だけだが、16年度までには事実上全作品発禁になるに及んで、隠栖を覚悟し決意す。 |
昭和15年 1940 |
四十六歳 | 4月から、「少年倶楽部」に『新宝島』連載。 7月、三河の鳳来寺に旅行中、旅館で心悸亢進の発作を起こし、以後心臓の変調を感じ続ける。 |
昭和16年 1941 |
四十七歳 | 7月、非凡閣から『幽鬼の塔』を刊行。 12月、池袋丸山町会第十六組の防空群長を勤める。 |
昭和17年 1942 |
四十八歳 | 前年に旧作は全作絶版になり、新作の注文も途絶える。小松龍之介名義で"健全"少年科学読物『智恵の一太郎』連載。 7月、池袋三丁目北町会副会長を勤める。戦時下住民のために尽力。 |
昭和18年 1943 |
四十九歳 | 年初あるいは前年末に、庭に防空壕を作る。 1〜2月、名古屋の探偵小説研究家・井上良夫と手紙で頻繁に探偵小説を語り合い渇きを癒す。 5月、「婦人倶楽部」「少年倶楽部」の特派員として亀有の日立精機工場、蒲原の日本軽金属工場、足尾銅山などを見学。 8月、翼賛壮年団豊島区副団長となる。 11月から「日の出」に科学スパイ小説『偉大なる夢』を連載 |
昭和19年 1944 |
五十歳 | 戦争緊迫状態の中、町会の仕事に尽力する。 |
昭和20年 1945 |
五十一歳 | 3月9日、東京大空襲。 4月、家族は福島県保原町(現・伊達市)に疎開させる。同月13日夜、池袋一帯が焼け野原となった中、奇跡的に乱歩邸一軒だけ焼け残る。 6月、乱歩自身も病気療養のため福島疎開して家族と合流。8月15日の終戦の詔勅は疎開先で聞いた。 11月、帰京。 |
昭和21年 1946 |
五十二歳 | 2月、ウィリアム・アイリッシュ著『幻の女』を英文で読み興奮する。 探偵小説復興の先陣を切って、3月に「ロック」が、4月には「宝石」が創刊される。 4月(6月?)、探偵小説作家、探偵小説同好家の親睦会である「探偵小説土曜会」提唱し、第一回会合を開催、次年の探偵作家クラブの前身となった。 著書も続々と復刊される。 |
昭和22年 1947 |
五十三歳 | 探偵小説芸術論を唱える木々高太郎と論争し、2月、随筆『一人の芭蕉の問題』発表。 同2月、かもめ書房から『幻影の城主』を刊行。 6月、「土曜会」が発展改組し「日本探偵作家クラブ」を結成、乱歩、初代会長に選ばれる。(昭和27年まで会長職) 11月、探偵小説普及復興のための行脚と称して、横溝正史らと関西を講演旅行。 この年の旧作の刊行は三十一点。 |
昭和24年 1949 |
五十五歳 | この年から創作を少年物より再開、「少年」に1〜12月『青銅の魔人』を連載。以後、25年『虎の牙』、26年『透明怪人』、27年『怪奇四十面相』、28年『宇宙怪人』、29年『鉄塔の怪人』等、毎年一作「少年」に連載。 4月、捕物作家クラブの創立発起人になる。 10月、エドガー・アラン・ポーの死後百年記念行事の関連記事を盛んに執筆。 |
昭和25年 1950 |
五十六歳 | 3月、報知新聞に『断崖』を執筆。(戦後最初の一般向け創作) |
昭和26年 1951 |
五十七歳 | 1月〜12月に面白倶楽部に『三角館の恐怖』を連載。 5月、岩谷書店から評論集『幻影城』を刊行。 11月、日本文芸家協会の文士劇「鈴ヶ森」に幡随院長兵衛役で出演。 |
昭和27年 1952 |
五十八歳 | 3月、『幻影城』にて第五回探偵作家クラブ賞受賞 4月、日本将棋連盟より初段に認定される。 7月、3期つとめた探偵作家クラブ会長の座を大下宇陀児に譲り、乱歩自身は名誉会長に推される。 9月、生地名張を物心ついて初めて訪問する。 |
昭和28年 1953 |
五十九歳 | 9月、「宝石」に『類別トリック集成』を連載。 |
昭和29年 1954 |
六十歳 | 4月、黒岩涙香全集刊行記念に黒岩涙香三十三周年記念祭を三越劇場で開催するも、肝心の涙香全集は刊行中止に。 6,7月、「大阪産経新聞」に『兇器』を発表。 10月、東京会館で還暦祝賀会が挙行され、その席上で「江戸川乱歩賞」の制定を発表。また小説を書くとの公約する。 その公約通り、11月〜翌30年10月に「化人幻戯」を「別冊宝石」〜「宝石」に連載。 11月から、春陽堂より『江戸川乱歩全集』全十六巻が順次刊行。 少年物がはじめてラジオと映画化される。 |
昭和30年 1955 |
六十一歳 | 1月〜12月、「面白倶楽部」に『影男』連載、4月に「オール讀物」に『月と手袋』、7月に「文藝」に『防空壕』、10月には講談社版書き下し長篇探偵小説全集第一巻に『十字路』、また少年物を「少年」と並行して、「少年倶楽部」に連載するなど、精力的に小説を発表する。 5月、第一回乱歩賞を中島河太郎の『探偵小説辞典』に贈る。 11月、名張市の出生地跡に「江戸川乱歩生誕地」の記念碑建立される。 |
昭和31年 1956 |
六十二歳 | 4月、「オール讀物」に『堀越捜査一課長殿』発表。 同4月、J・B・ハリス訳で英訳短篇集『Japanese Tales of Mystery and Imagination』を「タトル商会」から刊行。 6月、ハヤカワ・ミステリ出版の業績に対し、乱歩賞を贈る。 11月、東京創元社より、棟方志功の版画入りの自選短編集『犯罪幻想』を限定出版。 |
昭和32年 1957 |
六十三歳 | 4月、早川書房から『海外探偵小説作家と作品』を刊行。 8月、東京創元社から『わが夢と真実』を刊行。 経営不振の「宝石」にテコ入れ、8月号より自ら編集に乗り出す。(以降昭和37年まで) 9月、第三回より長編公募に切り替えた乱歩賞を仁木悦子に受賞。 10〜11月『妻に失恋した男』を「産経新聞」に発表。 「少年」「少年倶楽部」に加え「少女クラブ」にも連載。 |
昭和33年 1958 |
六十四歳 | 1月、「少年」に『夜光人間』を、「少年倶楽部」に『奇面城の秘密』を連載。 |
昭和34年 1959 |
六十五歳 | 前年末から高血圧を患ってることに気がつき、交際を自粛し始める。 11月、『ぺてん師と空気男』を桃源社の書下ろし推理小説全集第一巻にて刊行。少年物以外では最後の長篇となった。 |
昭和35年 1960 |
六十六歳 | 1月、「日本語版ヒッチコックマガジン」に『指』発表。少年物を除くと最後の創作。 1月、「少年」に『電人M』を連載。 東都書房版日本推理小説大系の編集委員となり、4月より刊行 7月、青蛙書房から『乱歩随筆』を刊行。 10月、蓄膿症再手術 |
昭和36年 1961 |
六十七歳 | 学年誌までに及んでいた少年物の連載を「少年」1本に絞り、『妖星人R』を連載。 4月、文芸家協会名誉会員となる。 7月、桃源社から『探偵小説四十年』を刊行 10月から、自ら最終校訂した『江戸川乱歩全集』全十八巻を桃源社より順次刊行。 11月、多年にわたる探偵小説への貢献から紫綬褒章を授与される。 |
昭和37年 1962 |
六十八歳 | この年、最後の少年物の『超人ニコラ』を連載。 年末、元気であるにも関わらず、「ランポキトク」の偽電報・偽電話が推理文壇を騒がせる。 |
昭和38年 1963 |
六十九歳 | パーキンソン氏病の悪化、立居振舞いが困難になる。 1月、病躯を押して実現に苦闘した社団法人日本推理作家協会が文部省に認可され、初代理事長に就任。この年8月まで勤める。 東都書房より、随筆集『彼・幻影の城』を刊行。 |
昭和39年 1964 |
七十歳 | 7月、日本推理作家協会総会で古稀の祝いを受ける。 |
昭和40年 1965 |
七十歳 | 7月28日、脳出血のため自宅にて逝去。享年70歳戒名は智勝院幻城乱歩居士。 7月31日、正五位勲三等瑞宝章を追贈さる。 8月1日、委員長大下宇陀児の元で、日本推理作家協会葬が青山葬儀所で営まれる。 ちなみに墓所は府中市多摩霊園にある。(正確な位置は26区1種17側6番) |