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投稿時間:02/04/30(Tue) 18:14
投稿者名:松村武
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タイトル:「二銭銅貨」と「一枚の切符」が決定付けた日本ミステリ界の方向性・私見
処女作「二銭銅貨」とともに執筆された作品、しかも「石塊の秘密」としてならば「二銭銅貨」に先立つ、文字通りの処女作(なお「火縄銃」「悪魔が岩」は飽くまで習作と考え、此処では論じない)である「一枚の切符」、本作は何故、人口に膾炙されず、今一つ人気がないのか?また「新青年」には同時に持ち込まれたにも拘わらず、何故「一枚の切符」は後回しにされ、輝く「処女作」の栄光から滑り落ちたのであろうか。むろん森下雨村と小酒井不木が「二銭銅貨」を激賞したからに他ならないが、では「一枚の切符」は、そんなに「二銭銅貨」よりも劣る出来なのであろうか。

使われているトリックだけを比較するならば、「二銭銅貨」は所謂「二重の暗号」のみである(因みに「火縄銃」は例の「密室トリック」一本だけであるし、「二廃人」も「恐ろしき錯誤」も基本的にメイン・トリック一つだけで構成された小説である)のに対し、「一枚の切符」は、「足跡トリック」「体重偽装」「筆跡偽造の謎」と大小併せてトリックが盛りだくさんである。複数トリックの組み合わせによる短編は、他に「黒手組」「D坂の殺人事件」「心理試験」「何者」などが挙げられるに過ぎない。
本来の本格派ミステリの立場から考えれば、細かい謎の積み重ねを丹念に解き明かしてゆく構成、そして最後に意外な真犯人が明らかになる結末、それが本格派の理想形であり、「一枚の切符」は愚直なまでにその構成に拘った作品である。「二銭銅貨」は悪く言えば、一発アイディアに過ぎない。

にも拘わらず、「二銭銅貨」が現在もなお暗号ミステリの最高傑作として、そして大乱歩の輝ける処女作として君臨し続けている理由、それは一重に、「日本的な私小説の伝統に則った貧窮生活の鮮烈な描写」と「海外ミステリには絶対に真似できない種類の暗号コード」、そして「ドンデン返しの鮮やかさ」によるものであろう。確かに小説としての面白さなら、「一枚の切符」は「二銭銅貨」に勝てない。「二銭銅貨」のアッと驚く結末、精巧な暗号、そして何よりも、主人公たちの貧窮生活の生々しい描写、これは大正文学全般の枠内で捉え得る程の出来栄えと言っても良い。
かくして「二銭銅貨」は日本近代ミステリの輝ける出発点となった。だがこれは、その後の日本ミステリの方向性を決定付ける、重要な或る要素を含んでいたのである。

先ず、本格派の探偵小説は、小説としての面白さよりも、謎解きの論理性の方が大事なことは論を待たない。にも拘わらず、「一枚の切符」が「二銭銅貨」に破れたことは、即ち、「小説としての出来栄えを犠牲にしてでも論理的な謎解きに徹するストーリー」が「小説としての面白さを備えた上での意外性のあるストーリー」に破れたということであり、この認識から日本ミステリは出発してしまった。

また第二点として、以前にも触れたことがあるが、「二銭銅貨」中のセリフに「・・・だが君は、現実がそんなにロマンチックなものだと思っているのかい・・・云々」というものがある。これは非常に重大なセリフであると僕は個人的に思っている。この一言で一攫千金の夢が潰えただけに留まらず、「ミステリの夢やロマンは現実の厳しさには敵わない」ことが明らかになったからである。結局、「私」も松村武も一時的な白昼夢の世界に遊んだだけで、E・A・ポオ「黄金虫」やスティーブンソン「宝島」のような夢が実現することもなく、その夢が壊れた後、彼らにはまた、その日の暮らしにも困るような貧窮生活が待っているだけである(勿論、それは「二銭銅貨」には記されていない。押し黙ったままの松村の描写で終わるのだが、この素っ気ない終結で、その後の全てを暗示させる切れ味の良さは只者ではない。が、これは余談)。

現在、「松本清張を筆頭とする社会派によって、戦前以来の探偵小説のロマンが壊された」と主張する連中がいるが、何のことはない、日本ミステリは、その出発点「二銭銅貨」で既に、「ロマンや夢など、現実の社会の厳しさには勝てない」という地点から出発していたのである。
その意味において、「二銭銅貨」こそが、「第一次大戦後の、成金の登場に象徴されるような大正バブル経済と、その崩壊による貧窮生活者の増加」という、当時の「社会派」の先頭を走っていた作品であると思う。この地点から日本ミステリが出発してしまったことが、良かったのか悪かったのかは、今になっては分からない。だが「二銭銅貨」と「一枚の切符」の評判の差は、両者の出来不出来だけに留まらない、日本ミステリ全般の動向に係る、非常に重要で、かつ決定的な一瞬だったのだと思う。