乱歩小説感想掲示板過去ログ

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投稿時間:02/02/28(Thu) 17:38
投稿者名:松村武
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タイトル:「畸形の天女」の舞台を訪ねて
「畸形の天女」はご存知の通り、数名の推理作家による連作長編であり、乱歩の単独作品ではありません。連作ミステリと言えば、戦前の例に見られるような、辻褄の合わない、投げやりなものが多いのが通例ですが、本作では、少なくとも第1回目を担当した乱歩の書いた内容は、かなりレベルの高い出来であり、戦後の乱歩作品の中でも第一級に属し、このまま全部を乱歩に書いて貰いたかったとすら思っています。

この作品の主な舞台となったのは、東京・南千住一帯(特に汐入)なのですが、この感想文では、その町を訪ねた時の思い出を、作品の場面などを交えて書いてみたいと思います。
もう5、6年も前のことで、はっきり日時を覚えていないのですが、初夏の或る日、友人と二人で、東京・建築見学ツアーに出かけました。これは東京の明治、大正、昭和初期に作られた古い建築物を見て回るというもので、友人は建築士の免許を持っており、僕は乱歩作品などの影響で、失われつつある古き良き東京の風景に興味があり、それまでにも、神田、麻布、早稲田、飯田橋、築地、明石町などを見て廻っていました。この時は、門前仲町を振り出しに、佐賀町の倉庫街、深川、同潤会・清砂アパートなどを見た後で、最後に南千住を訪ねました。

地下鉄・浅草駅近くから都バスに乗り、途中、吉原大門から山谷・泪橋の交差点を経て、バスはJRの貨物ターミナルが荒涼として広がる脇を走ります。何もない埃っぽい路に、無造作に丸太が捨てられていました。「小説の中にも、確か主人公の男が、工場の長い塀に沿って捨てられていた木の電柱に座るシーンがあったっけ」などと思い出しました。まさにその光景が思い浮かぶほど、荒涼とした風景です。
とかく言ううちに、バスは終点・汐入に到着。バス停のある路を挟んで、再開発で新たに建てられた高層マンション群と対峙して、迷路のような古い住宅街が広がっています。ここ南千住・汐入地区は、それまで東に向って流れてきた隅田川が、南に向って大きく湾曲する部分に位置し、貨物駅や東京ガスの工場があることや、労務者の町・山谷に近いこともあって、正に「場末」という言葉がピッタリする雰囲気です。

早速、細い路地に潜り込んで探検開始。ゴチャゴチャと秩序なく住宅がひしめいているのですが、余り人を見かけません。また玄関先の鉢植えなども枯れていたりします。と思ったら、いきなり広い空地に出てしまいました。そう、再開発の波は既にこの地区のあちこちに押し寄せており、東京都の収用により、歯の抜けたように空地が点在し始めているのです。余り人を見かけないのも、既に転居が進んでおり、廃屋となった住宅も多いからです。空地の向こうに見える廃屋の一つを眺めながら、「あんな建物の中で少女と密会を重ねたのかな」と想像するうち、あの少女が通りかかり、アッという間の一踊りを見せてくれるのでは、と辺りを見回してしまいました。
暫く路地の迷路を彷徨った後、珍しく開いていた駄菓子屋で休憩。ジュースを飲みながら、昭和30年代のような店内を眺め回します。駄菓子屋というよりよろず屋の趣きで、古い看板を見ているうち、「畸形の天女」というより「白昼夢」のドラッグ屋を思い出してしまいました「××ドラッグ」と書かれた商標が貼ってあって、表の通りで子供が縄跳びでもしていれば、もう「白昼夢」そのものの世界です。でも残念なことに店には人だかりもなく、怪し気な口上を述べる男もいません。でも、陽炎で海草のように揺れる電柱が埃っぽい路に続いていたり、薄汚い商店や砂をかぶったような洗濯物など、小説のままの景色を見ることが出来ました。或いは「白昼夢」の何処とも知れない、夢か現かという場末の町のモデルも、ここ南千住なのかも知れないと思いました。
さて、隅田川の堤防を上れば、「畸形の天女」で少女が歩いた白髭橋や東京ガスの工場が見えます。対岸は北千住から玉ノ井辺りなのでしょうか。貨物駅の方から、貨物列車の鈍い警笛やゴトゴトいう音が微かに聞こえてきます。ただ堤防といっても、悪名高い、所謂「カミソリ堤防」で、垂直の無粋なコンクリート壁に仕切られているだけで、上を歩いて行くことは出来ません。隅田川も一時に比べて綺麗になったとは言え、湾曲する部分なのか、水は暗く淀んでいます。岸には打ち捨てられた廃船がユラユラと揺れています。が、この殺風景な雰囲気こそが、むしろ「畸形の天女」の場末の舞台には相応しいような気がしました。
夕暮れが近づいても死んだように静まり返っている商店街、遠くから聞こえる哀しげな豆腐屋のラッパ、廃業した銭湯などを後に、汐入を出て、山谷・労務者街を抜け、JRガード近くにある、江戸時代の小塚原刑場跡の「観臓記念碑」を見て、乱歩スポット散策を終えた一日でした。

今、南千住・汐入は再開発が更に進み、最近見た本では、ほぼ完全に古い住宅街は壊滅していました。もはや乱歩の世界を実感できるような町は東京には無くなってしまい、一部の古い建物などに、その雰囲気を残すのみです。
戦前の大正、昭和初期の帝都・東京ではなく、戦後の東京の虚しい風景を活写した乱歩は、コケティッシュな魅力を持つ少女に何を象徴させたのでしょうか。少女もチンピラも、また労務者に扮して猟奇を求める男も登場しない、消える寸前の町を歩きながら、「少女は失われてゆく東京の町と心中したのではないか」と思った、或る初夏の日の思い出です。